この記録を綴るに当って 高瀬 忠三

 宮城道雄先生御遭難の翌日、即ち昭和31年6月26日、やや平静をとりもどした私は、新聞記事が少しづゝ違ったりしている事をきゝ、これは真相を調査しなければと気付いた。夕刻近くからカメラと手帳を手にして刈谷へ出かけた。

 然し直ぐ夜になってしまい、ほんの一部しか調査出来なかったので、更に27日に出かけて出来るだけの調査をし、早速現像、焼付をして、一応の編集をして徹夜で調査事項を走り書きして28日朝上京、「悲しき記録」として奥様までさし上げたのでした。

  然し、その後御遺族のおことばを伝えに行ったり、刈谷市と宮城会が主体となって現場近くに先生をお偲びする碑を建てる案が出ましたのでその連絡、打合せ又奥様方の刈谷御訪問についての連絡、当日、更に御命日のお詣り等何度か刈谷を訪問していろいろ当時の思い出など関係者とお話合ったりしているうちに、最初の調査と違ってきたり、また新しい事実などの判明もあり、どうしても新しく記録し直す必要があると思っていましたところ、奥様方から改めて当日の詳しい事実を書いたものをとの御依頼もありましたので再び筆をとり、差し上げることにいたしました。

 全国の宮城会員の方々もさぞかし真相をお知りになりたいことと思いますし、出来ることならば、会報にお載せいただく機会が得られるならばまことに幸いと存じます。

 尚、および越し的な書きぶりでは書きにくくなりますので、その場に居合せた様な態度で書かせていただくところが多くなると存じますが御了承いただきたいと存じます。

 又、文のまずさは無能を暴露いたしまして愧じ入る次第ですが、何とかして真実を書き表そうとする心持ちのみをおくみとりいただきますよう御願いいたします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  宮城道雄先生 御遭難の記録

 「三河線のガードのところに轢死体があるらしい。君達御苦労さんだが見て来てくれ給え。」

 東海道線刈谷駅の電気時計は午前4時近くを示していた。夜明前の駅構内はことに物悲しいほど淋しい。柴田金六さんら4名はランプを手にうすら寒いプラットホームに出た。

 昭和31年6月25日午前3時46分、隣の大府駅から連絡があったのだ。それは刈谷駅を3時半ごろに通過した下り貨物列車1189列車の田中二三機関士が大府駅に紙片を落として「刈谷駅東ガードのところに轢死体らしきものを見た。」というのである。

 夏至直後とはいえ、まだあたりは暗くレールだけが不気味に光っていた。

 4人は線路伝いに砂利をふみしめながら約500米東の三河線ガードに向かって重い足を運んだ。

矢印が転落地点

 「君達は上り線を見てくれ、僕達は下り線を見て行くからね」 4人が二手に分かれて気味わるわる進んで行く。

 やがて眼前に黒々とガードが迫った。と、下り線よこのガード下に白く横たわったものが見える。柴田さんは「あれだ」と心の中でつぶやいて近づこうとすると、足と思われるところがもり上がるように動いた。死んでいる筈の人間が動くほど怖いものはないという。

 その時の4人の驚きようは察するに余りあろう。

 「や、生きている」と叫んでそばへ駆けよるとその白いものが、

 「どこかへつれていってください」

とはっきりものを云ったのである。

 二度びっくりした4人は担架を持って来るべくころげるように駅にとって返した。楽聖とまで讃えられた芸術院会員生田流箏曲大家宮城道雄氏その人であろうとは夢にも想像出来る筈がなかった。

 もう東の空は紫がかって来ていたが足もとは暗く足場もわるく7、8分はかかったと思われるが、担架を持ち新たに森島英夫さんら2人が加わり都合6人で再び現場へ駆けつけて三度びっくりした。

 さきほどはたしかにガードの柱と石垣の間のところに頭を位置し線路よこのシグナルケーブル線暗渠のへんに足があるような形で仰向きになっていた筈なのに、今見ると暗渠に腰を下して線路の方に向かって膝を抱きかかえるようにして右手で頭をささえるような恰好に変わっているのである。

 当時のもようを関係者からつぶさに聴取し又豊田病院長古居亮治郎氏等のお話を綜合し、もっとも真に近いであろうと思われる想像をしてみた。

 運命の13列車下り急行「銀河」は現場を6月25日午前2時53分頃通過している。中村駅長さんのお話によると現場付近は直線コースであり刈谷駅通過の急行なら時速90キロぐらいの快速力で疾走している筈との事。(新聞や雑誌等に「魔のカーブ」とか「駅構内でポイント切替えのための大きなゆれのためだろう」などの推測がなされているが構内であるがポイントもなく全くの直線で辷るように走る箇所である。無論立っていればよろめく程度には常にゆれているものではあるが)

 「銀河」の後には20分おいて急行「安芸」が通っており、その間貨物列車も通過したであろうし、又上りの列車でも運がよければ偶然に発見出来たかも知れないが、事実は約40分経過して発見され、担架に載せられたのが4時10分ごろと推定されているところから約1時間20分ほどお一人で倒れていらっしゃったのである。

 落ちられた原因については結局不明であり、その究明は後にゆずるとし、転落後の御様子については或程度の想像が可能であるので一応記してみる。

 はじめ転落されたと思われる地点

B・C・D 血痕と頭髪がみとめられた箇所

E・F は不審な血痕(本文参照)

G あたりまで移動され担架に載せられる直前は

H まで退られて矢印の方向即ち線路の方を向いて腰を下しておられた。

  (E・F・G は推測)

 お怪我の状態より考え、デッキからほうり出された先生は、体の左側を下にして地面に落ちられたと思われる。それは左の肋骨が3本ほど折れている事実よりの推定であるが、ついでそのはずみで石垣やガードの煉瓦柱に頭を打ちつけられたために、計25針もの6ヶ所の裂傷を負ったものと考える事が出来る。石垣に2ヶ所、煉瓦柱の角と都合3ヶ所

に頭髪と血痕がみとめられた。若し石垣あるいは煉瓦柱に直接頭を打ちつけたとすれば90キロのスピードで衝突することになり、まず即死はまぬがれないと考えることが常識となる。

 思うに、おそらく「しまった」と思われた次の瞬間には、人事不省に落ちられたことであろう。

 とにかく約5寸の裂傷が2ヶ所、その他4ヶ所、大まかに縫合して25針という大怪我であり、レントゲンの結果頭蓋骨底にヒビや骨折がみとめられるほどであるから意識不明になられた事は当然と見るべきであろう。それが夜明の冷気にうたれてふと意識回復されたのであろうが、それは考えてみるに刈谷駅から4人が出かける直前ごろであろうと推定される。若しずっと意識があったとすれば当然少しはそちこち移動されたと考えられることとなるが血痕よりみて、煉瓦柱と石垣との間のところ半メートル平方ほどのところがベットリとし、他に見える血痕は何れも僅かである点より落ちられたままの位置が動いていない事を裏書きしている。

 さて、ふっと我にかえられた先生が全身に痛みを感じて身もだえしていらっしゃるところへ、かすかに砂利を踏む足音と人の話し声が近づいたのをおききになり全く朦朧とした御意識の中で「どこかへつれて行って下さい」とおっしゃたものであろう。

 そして前記駅員達が担架をとりに走り去った後急速に意識を回復され、兎も角も起き上がろうとなさった。然しあれだけのお怪我であるから、まずお怪我の少ない右のお手で煉瓦柱につかまろうとなされたにちがいない。

 その為に血痕のつくはずがないと思われる位置にそれがみとめられると判断する。

 やがて、ようやく這うことの出来そうな形まで起こされ、危険にも線路の方向に移動されたと思われる。それは前記不審な煉瓦柱の血痕のところから線路によった暗渠に若干の血痕あり、続いて線路沿いの砂利が乱れていた事実より推定出来る。或いはもっと進まれて線路をさわっていらっしゃるかも知れない。先生が果して鉄路の形態を御存知だったかは疑問であるが、急速な意識回復と記憶の呼び戻しによって、又は丁度その時刻に上下線どちらかに貨物列車の通過もあったかも知れず、何か乗り物から落ちたらしい汽車からか?電車からか?と既に考えていらっしゃったのではあるまいか。それに鋭い勘も手伝って危険を感じられた先生は再び暗渠の位置まで退かれて安全を期されたものと思われる。その時は既に出血は少なくなっていたようで、腰をおろしていらっしゃった位置には全然血痕は見当たらなかった。

現場近くに設けられた供養塔に詣でられる
貞子夫人、宮城衞、喜代子、松尾清二の諸先生

 6人が担架とともに再び駆けつけた時は、先生がよくなさったという膝をかかえこんで腰を下されたなつかしいお姿でおられた事は想像出来る。

 肩を頭を胴を足をと6人でそっと担架にお載せしようとしたのであるが、おどろいた事に先生は御自分から乗ろうとされ、どちらかのお手は担架の棒をにぎられ、足は御自分で載せられたほどだった。

 現場出発が前述の如く4時10分ごろと推定されるがようやく白みかけて来た頃である。

 線路伝いに構内へ約200米進んだところ、突然、「わたしは、汽車から落ちたのだろうか。電車から落ちたのだろうか。」

 とおっしゃった。だんだん記憶をとりもどして来られたことを証明しているがまだ本当ではない。森島さんが、

 「汽車から落ちられたのでしょう。」とお答えすると「ああそうか。」と肯かれた。担架にゆられながら、一生懸命記憶を辿っておられたことであろう。何故汽車に乗っていたのだろう?、誰と?、何しに?など・・・・・・そしてどこまで記憶を辿られたか、又突然御発言になった。

 「ここはどこですか」と。すかさず森島さんが「刈谷ですよ」とお答えすると、

 「名古屋は直ぐですね。」といよいよはっきりして来られたのである。刈谷駅の位置をはっきりと意識されたのだ。御発言はなかったがおそらく先生の頭の中を、東京のお留守宅の事、大阪の演奏会の事、たくさんの門弟の事、作曲中の「富士山の賦」の事など次々と駆けぬけたことであろう。自分にはまだまだ大きな仕事が残っている。ここで死んではならない。と必死になって生きぬこうとお気を強くしておられたにちがいない。

 やがて刈谷駅プラットホームで人員を一部交替して更に600米ほど離れた豊田病院へ向かう。非常に重いので担架を肩に載せてみた。先生が「痛い。」と仰言った。ゆれるのをおそれて、再び手で提げてようやく明るくなって来た道を病院へ急ぐ。

 先生は時々お体をくねらせるようにして数回「痛い」と仰言った。

 一方駅では寝巻によって二等寝台のお客様ということが判ったので昨夜の二等寝台車のある急行への連絡をしていたがなかなかわからなかった。

 担架は病院手前300米まで進んだ。

 「病院はまだですか」と先生がおききになった。森島さんが「もうすぐです」とお答えしまたしばらくして再び「病院はまだですか」ときかれた。病院の門はすぐ近くに見えた。

 少しでも不安をのぞいてさしあげようと、「もう病院の庭へ入っていますからしっかりして下さい。」と力をつけるようにお答えした。先生が「生きたい。生きなければならない。まだ仕事がたくさん残っているのだ。」と叫びたいお気持ちが言外にあふれていることをひしひしと感ずる。

 病院着は4時40分乃至50分ころとなっているので約3、40分担架でゆられたことになる。意識ははっきりしていらっしゃったのだから、いろいろ仰言りたい事もあったであろうに・・・・。

刈谷駅助役長崎氏(左)と第2回輸血提供者
の同駅員森島氏(右) 事故現場前にて撮影

 病院では看護婦が二人当直をしていた。駅からは予め電話がしてあったので、応急の用意を整えていたのだが、傷の程度がひどいので急いで病院長に連絡した。院長宅は病院の向かい側である。

 さて手術台の上にお載せした、杉山、天野両看護婦は早速応急の処置にかかったが受付の必要上、住所氏名を明らかにしようとした。先生のお体は全身血と泥、砂等でお顔もさだかでなく瘡口には既に血餅が出来て泥や砂がくいこんで洗い落とすにも一苦労だったが、その処置をしながら杉山看護婦が「お名前は?」とおききした。すると先生は極めてはっきりと而も一気に

 「ミヤギ、ミチオ」と仰言った。ついで「どういう字を書きますか?」とおたずねすると、

 「ミヤはお宮の宮、ギはお城の城、ミチは道路の道、オは雄です。」とこれ又極めて明確にお答えになったのである。これは実に驚異的事実で普通人が冷静な時でもこうもすらすらと自分の氏名の文字の説明を、そう簡単に出来るわけのものではないのに驚嘆のほかはない。つづいてこんどは先生の方から

 「ここはどこですか」とお聞きになった。杉山看護婦が「刈谷の豊田病院です。」とお答えすると

 「刈谷でしたら名古屋は近いですね。」とおっしゃった。担架の上でもきかれた。そして又病院でもたしかめられた。自分が今どこにいるのか確かめたいお気持ちがよくうかがわれる。

 杉山看護婦は住所を確かめようと、「お所は」とおたずねした。然しそれにお答えする先生のお声は次第にお力がうすれていった。

「東京都、ウシゴメ・・・・・・」まではどうやらききとれたが最後のゴメはもうはっきりききとれなかった。丁度居合せた刈谷駅の森島さんと報せをうけて駆けつけて立合われた刈谷警察署の浅尾巡査部長(第1回輸血者となる)は、ミヤギミチオ・東京、・・・・・をつなぎ合せて、さてはお琴の・・・・と直感したのである。身元についての連絡は直ちに刈谷駅へ、それから名古屋公安室へ、そして東京駅へと飛び数分を出ずして御留守宅に通じたものの様である。森島さんら立合われた方達のお話では先生らしいとの判明は5時ごろといい、先生の奥様が飛電をお受けになったのが丁度5時と記憶していらっしゃる点よりみていかに速く連絡されたかがうかがわれる。

 一方下り各急行に連絡中だったが宮城先生と判明するや5時7分米原着の「銀河」の二等寝台に牧瀬喜代子先生を発見、5時40分発の上りで引返されたわけであるが、この方も数分おくれれば大津からの引返しとなり、いくら急いでも11時過ぎとなるところであったのだ。

7月19日御遺族の現地ご供養

 さて看護婦からの連絡によりいちはやく駆けつけた古居院長は直ちに処置にかからられた。泊り込みの看護婦も全部起きて総掛りとなって万全を期す。消毒をすまして大まかな縫合で約25針という大小6ヶ所の裂傷で、そのうち2ヶ所は約5寸というものであっていかにひどく打ちつけられたか想像出来る。

 時々「痛い」とは言われたが特別お苦しみになった御様子はなかった。然し相変わらず、いやさらにと申してもといかも知れぬほど意志ははっきりしていらっしゃった。それは浅尾巡査部長のおはなしが物語って痛ましい。

 同氏が何かで一度手術室を出て再び入っていくと、その物音に反応するように先生は乱れた寝巻の裾を整えようと右手でしきりに前を合せておられた。「あれほどの重傷の人であのようなところを見たことがない。偉い方は違ったものだ。」と同氏はつくづく感歎しておられたのである。この事実を考え合せると瀕死の御重傷の中でもけっして恥をかくまいとお気をつかっていらっしゃるお気持ちのあらわれで只々驚嘆申し上げる次第である。

御世話になった刈谷警察署の皆さん
左端が第1回輸血者の浅尾巡査部長

 処置の終わったのは、森島、浅尾氏談では5時がよほどまわっている。看護婦達では6時に近かったと思うといっている。

 その場で申し出のあったのを幸い同血液型の浅尾巡査部長の提供した200㏄の輸血をする。脈も強くなり御元気も出られた御様子が見受けられた。

 瘡口以外の汚れは全部洗い清められたが、全身にわたっての打撲、擦過傷があり到るところ点々と紫色になっている。

 左の肋骨が3本ほど折れていることがみとめられたが、一応頭部の手当のみに止め、肋骨々折の処置はその経過を見てからと診断して、レントゲン室で頭骨の写真を撮りついで5号室にお運びした。その間NHKから数度御容態についての問合せがあった。

 寝台に横になられてからはしばらく静かにしていらっしゃった。然し院長はもう一度の輸血を発言、森島さんが自分のがO型であることを記憶していて提供を申出て下さった。

 輸血の直前に「尿瓶」 「尿瓶」と尿意を訴えられた。相当しっかりしたおことばであったようで、後の方に居た浅尾巡査部長の耳にまできこえたほどであった。然し結局は導尿されたのが150㏄ぐらいだった。

 輸血は困難を極めた。腕の静脈がうまく出ないのである。遂に足の方まで調べたがだめ、細い針にとりかえて、細い血管を探しあてて実施したが180㏄ほどしか入らなかった。

 無意識ではあろうがよく動かれた。

 第2回輸血後しばらく静かにしておられた。院長はいったん院長室へ体を休めに行かれた。杉山、天野両看護婦だけおそばについて御容態を警戒していた。と突然、

 「腰が・・・」とつぶやくようにおっしゃった。二人で「腰がどうされました?」とおききすると

 「痛いからさすって下さい。」

 とおっしゃたので杉山看護婦が痛くない程度にさすってさし上げていると、そのうちにまた突然、「坐らせて下さい。」とおっしゃった。

 「今看護婦は二人しかいませんし、お起こしするときに痛いといけないですから皆来るまで待って下さい。」と、とてもお起こしすることは出来ないし、お起こしすることはよくないことを承知しているのでおなぐさめするつもりで申し上げると、とぎれとぎれに、

 「二人でもよいから起こして下さい、看護婦さん、起こしてください。」と哀願され、杉山、天野両看護婦もお気の毒で途方に暮れたが交互に「皆が来るまで心棒してくださいね」と胸をかきむしられる思いでおなだめしたのだがこのおことばを最後として先生の呼吸は次第に静かに浅くなられたのだった。

刈谷の豊田病院 中央が古居院長

 ろうそくが最後に一度明るくなるように先生も最後の御気力をお出しになったのだろう。そして単なる苦痛から逃れたいといった事ではなく夢現の中で名器「越天楽」を左に右に作曲用の点字タイプライターをまざまざと思い浮かべられ「あの続きを・・・」と必死の努力を試みたのではないだろうか。

 然し、嗚呼然し、遂に「富士山の賦」は中断されてしまったのである。

 両看護婦は危険状態とみてとり鼻孔のところに細い糸を下げて呼吸の状態に注意をはらっていたが、それからは刻一刻と呼吸は浅くなり脈拍も微弱となり完全に危篤に陥られたのであった。

 静かな時間が流れる。病室の前から廊下と安否を気遣う入院患者やききつけた市民が息をつめるようにしてたたずんでいる。

 突然病室の戸が開いて、看護婦が不安の目で見守る廊下のうす暗がりを院長室へ走った。そしてあたふたと病室へ来られた院長が脈を見られたときはもう殆どわからないほどであった。

 「御臨終です。」と周囲に告げられた。時に午前7時15分。静かな安らかな御臨終であった。

 病院内外は深い悲しみに包まれ、そちこちからすすり泣きが洩れた。人事は天命を如何ともなし得なかったのである。

 天寿を全うされれば、奥様はじめ御家族の皆様、そして何百何千の門弟、知名の方々に囲まれて大往生さるべきなのに、御奇禍とは申し乍ら、誰一人知るものもない旅先の暗い病室で只お一人淋しく逝かれたお心のおちをお察しする時、何とも申し上げる言葉もない。

 あれもこれもと仰言りたいこともたくさんおありになったことでしょう。・・・

 こう考えてまいりますとお近くでのことですのに早く駆けつける事の出来得なかった事が残念でなりません。

 その日6月25日、目が醒めておりながらラジオのスイッチを入れなかったばかりに6時のニュースを聞きもらしてしまった。御近所の方がしばらくして知らせて下さったがこれも要領を得ないままに駅や警察に問合せしてもらっているうちに思わぬ時間をとり、兎も角もハイヤーで約50分(運悪く刈谷への道をはっきり知らぬ運転手だった。)豊田病院に駆けか込んだ時は7時45分ごろだったので御臨終からはや30分ほど経過していたのでした。

 受付けで何とはなしに不気味な緊張は感じとったが(門附近から玄関、廊下たくさんの人で、おそらくは、早くだれか知っている方が来てくれるとよいが、と待ちこがれているところへの最初だったので特に強い反応を示したのであろう。)まさかと思い、御重態で呻吟していらっしゃるであろうと思うと廊下を、足もつかぬ思いでころがるように病室の前まで走った。無論スリッパもぞうりもない。

 案内してくれた看護婦が5号室の入口の戸を開けてくれた途端、思わず「アッ」と声をあげてしまった。白布がかけられ、枕辺には線香がたっているではないか、目の前がぐらぐらっとした。御重態とはおききして飛びだした。然しこの瞬間までまさかと思って駆け込んで来たのであったのに・・・。

 よろめくように駆け寄ってもしやお人違いという一縷のものもどこかにあって白布をとりのけた私達は同時に「先生だッ」と叫んで後は前後もなく御遺体にとりすがって泣きに泣いた。

 まだ温かく、硬直も感じられないほどであった。真白い繃帯の先に組まれているお手の指もまだやわらかい。妻は「このお手が、このお手が・・・」と体をふるわしている。

 私は何か悪夢を見ている様な錯覚に襲われしばらくは言葉も出ず、又為すべきことを知らなかった。後にして思えば、駅の助役さんと警察の方がおられたらしかったが二人とも静かに室を出られた。

 何故この日に刈谷を通過されたのか、迂闊にも何も知らなかった私達にはあまりの意外のことにただ呆然とするのみだった。然し今自分達は、白蝋のように変り果て、而も頭を真白な繃帯に包まれ、薄いお胸の上に組まれたあの大切なお手、そしてたしかに間違いのない上歯を少し見せてにこっと微笑まれ、今にも何か話しかけそうなお口元をなさった永久に物言わぬ宮城先生にとりすがっていることは冷厳な事実である。

 「先生! もう一度! 先生」

 何度お呼びしてもいたずらにおつむがゆれるだけだった。

 病院の心遣いか、総てが真新しいものにとりかえられ、既にお痛ましい名残はなかったけれども、両手とも肘から上腕にかけては少し血がにじんでおり、お顔は少しのお瘡もなくおきれいだったがお頭は髪の毛が全然見えぬまでに分厚く繃帯され後頭部には血もにじんで見えお怪我の程度を物語って痛々しい。

 どんなにかお痛くお苦しかったことだろう。ことのほかお淋しがりやの先生だったのに、如何にご親切なお世話を受けたとはいえ誰一人知る人もないところでどんなに心細くお過ごしだったろう。ああ、6時のラジオニュースを聴いていたら一言でも先生のお言葉をおきき出来たであろうにと痛ましさと口惜しさに胸が煮えかえる思いだった。

 薄暗い病室内は静寂そのもので、ただ私達二人のすすり泣く声のみがあたりの空気をふるわせて香煙をゆらいでいたことであろう。然し忘我の静寂は30分と続かなかった。

 新聞記者が何人か飛び込んで来た。すぐインタビューが始まる。何も語ることは出来ない。只問われるままに自己紹介をする。ほどなく名古屋の田村通子様が馳せつけられた。御死去を知って来られたという。つづいて三輪あさ子御夫妻が、そして8時半ごろ気も狂わんばかりになって、とって返された牧瀬喜代子先生が御来着になった。然し大勢の報道陣に囲まれ先生とお二人になることは出来なかった。

 また、飛行機でおいでになった奥様、衛先生、松尾先生はものすごい報道陣の攻撃でお体の御自由さえ束縛されてしまったのである。偉大なる宮城先生の不慮の御死去に際し報道陣のとった態度は当然であり一面已むを得ないことではあろうが本当にお痛わしい限りと御同情申し上げた次第である。

 その日飛び出したまま皆様のお力をたよりとして最後のお世話をさせていただき夜帰って来た私は誰にも遠慮なく泣き明かした。何を見つめても直ぐ先生のお顔になった。

 然し不思議にも、先生を拝んだ時間の一番長かった筈の私がお死顔を思い浮かべるのではなく、ご生前のにこにこしたお顔が次々と去来するのだった。

 翌日私は残務の処理と実状調査の為、刈谷へ赴くべく岡崎駅へ、そして妻は当日、豊田病院から直ちに奥様方を東京までお送りして、翌未明先生の御遺体を宮城会館にお迎え申上げ、改めてご葬儀に参列すべく急遽帰って来たが、泣きつづけて来たらしく真っ赤な目をして、急行「阿蘇」から降り立った。ぬけがらのようになった二人は投げ出すようにベンチへ体をおいて、東の空をうつろに眺めながら又とめどもなく涙を流すのだった。

                 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「悲しき記録」は昭和31年の宮城会会報「宮城道雄追悼号」に掲載され、この克明な記録を元に多くの論文や小説が書かれました。

高瀬 忠三
平成10年5月11日永眠(享年85歳)