写真からのお教え
わが町の文化協会は毎年 8月に 『 岡崎文化 』 という冊子を発行しています。
2009年8月発行(第32号) 随筆 のページに上記のタイトルで寄稿いたしました。
『 のんちゃんの宝石箱 』 を訪れてくださった方にご紹介させていただきますね♪
山のようにたまっている写真の中に、私が最も大切に保存している写真があります。 それは、もう二度と手に入れることの出来ない宝物の写真で、新日本音楽の父と謳われ、楽聖ともいわれた 筝曲の大家 宮城道雄先生 のご家族と一緒に、宮城先生のお宅の玄関前で写っている5才の時の写真です。 私の父がお願いして撮影した貴重な一枚で、おこがましくも宮城道雄先生と貞 子奥様との間に、あたかもお二方の子供のようにスッポリ納まっております。 そして、宮城先生の後には、後に宮城宗家となられた宮城喜代子・宮城数江両先 生がご一緒に写っています。
実はこの時、宮城先生は放送局へお出かけになるためハイヤーを待たせていたのですが、父のたっての願いを受けてくださり、快くカメラの前に立ってくださいました。
この年の10月28日、宮城道雄先生にお箏のレッスンをしていただくため、私は父に連れられて初めて東京へ出かけました。 5才になって間もないこの年 の8月頃より私は本格的に琴の稽古を始めたようです。 …というより、母のもとへ通うお弟子のお稽古の様子を耳にしているうちに、「門前の小僧習わぬ経を 読む」の例えのごとく、身体で覚えてしまったようです。 私自身はどのように弾いていたのかほとんど記憶がないのですが、幼いながらもきちんと弾き、歌も 正しく唄っていたようです。 後に母から聞いたところによると、特に「御代の祝」という曲が大のお気に入りで、どんなに泥んこ遊びに夢中になっていてもそ の曲の門人の稽古が始まると泥のついた手で座って大人しく聴いていたそうです。 その姿を想像すると何か可笑しいですね。
そんな訳で、折角「御代の祝」が弾けるようになったのだから、この機会に是非お家元に聴いていただこうと父母の考えが一致したのです。
終戦から数年経過しているとはいえ世の中はまだ戦争の爪痕が残っており毎日の暮しはなかなか大変だったと思います。 その中をよく東京まで連れていって くれた、と今になって親に感謝するのですが、当の私はたくさん汽車(蒸気機関車)に乗れることの方が嬉しくて何とも彼とも罰当たりなことでした。 当時、 東京までは9時間もかかる大旅行だったのです。
その日、宮城先生にはとても丁寧にお稽古をしていただいた上で、「よく弾けましたね。この子は耳がいいから是非東京で勉強するように」 と仰ってくだ さったそうです。 父は大変恐縮しながらもとても有難く思い帰宅後母に報告したようです。 …が、なかなか実現には到りませんでした。
昭和31年6月25日、衝撃的なニュースが流れました。 宮城道雄先生が夜行寝台列車 『銀河』 から転落され不慮の死を遂げられたのです。
宮城道雄先生に直接お稽古していただいたのはたった一度だけでしたが、私は本当に幸せでした。 そしてその時に無理を押して一緒に写真に入っていただい たことが、後に宮城喜代子・数江両師の許でお琴の勉強に力を入れることが出来た礎になったと思っております。 そして今もなお 写真の中の宮城先生ご一家 に見守られ教えをいただいているような気がするのです。
今後もこの写真を心の糧として一層の精進を重ね、宮城先生が遺されたすばらしい曲を正しく美しく後世に伝えていく努力を続けてまいりたいと思っております。