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1999.10.17 : - 勝負の神様 - |
前回のコラムで「今年の“ダイエーのベンチ”には “勝負の神様”がいる可能性がある」と書きっぱなしで終わってしまった。今回は、その補足です。 昭和60年 “阪神タイガース”は、周りの評価を裏切りセ・リーグ優勝のみならず日本一に輝いた。 振り返れば確かに、10年がかりの“阪神タイガース”の補強は充実していたと言える。 昭和53年のドラフト会議では“空白の1日直後の江川”を、翌54年に“早稲田の岡田”と引き当てたとき、 球団社長(当時)の“小津”は、その苗字から【オズの魔法使い】と呼ばれた。 掛布が成長しバースを獲得し、「質・量ともに貧相」と言われた投手陣も 昭和58年のドラフト会議で指名した、1位“中西”2位“池田”3位“仲田(マイク)”が、 結果論で言えば大成功であった。 しかし、相変わらず世間の評価は低かった。その理由の一つに【球団体質】が挙げられる。 当時の“阪神タイガース”のイメージは“親会社”“監督”“コーチ”“選手”“ファン”の 向いている方向がバラバラで、「各々が『優勝する事』より大切なモノがある。」と思っていた・・ように見えた。 団体競技において、まとまりが無い事は致命的である。 ファンを除けば誰もが“阪神タイガース”は優勝を狙っていないチームと思っていた。 私も開幕前の“阪神タイガース”の評価は低かった。 確かに1番打者“真弓”と“バース”“掛布”“岡田”のクリーン・アップは強力ではあった。 しかし『打つだけのチーム』は、エース級の投手相手の時は圧倒的に分が悪く、 あの投手陣では得点よりも失点の方が勝ってしまうと考えていた。 しかし、その年の“阪神タイガース”は強かった。 3冠王を獲った“バース”に代表される『重量打線』に目が行きがちだが、 他球団にとって1番予定外だったのは“福間”を始めとする『中継陣』と抑えの“中西”であった。 そして『日本シリーズ』も、多くの評論家が 「1試合単位では『接戦なら“西武”打ち合いなら“阪神”』 トータルでは4勝2敗(各評論家平均)で“西武”」と予想していた。 ところがフタを空けたら、初戦・2戦目の接戦のゲームをモノにし 5・6戦目ではついに打線が大爆発し“阪神タイガース”は逆に4勝2敗で圧勝してしまった。 今回もまた、やたら長い「前振り」で申し訳ないが、ここからが本題である。 優勝した年と比べ前後の年の“阪神タイガース”の戦績を見てみると、 この年ほどの圧倒的強さが見られないのは何故だろう? この年だけ、“阪神タイガース”のベンチには“勝負の神様”がいた。 私はそう思っている。 昭和60年8月12日、球団史上最悪の事故が起きた、 この頃“阪神タイガース”は「死のロード」が始まり、 “広島”を2位で追っていた“阪神”はロード初戦から5連勝で首位に立ち、 13日からの後楽園での“巨人”戦のため、博多から意気揚揚と東京に移動した夜、 日航機が群馬と長野の県境の御巣鷹山に墜落。 電鉄本社の専務を兼任していた“中埜肇・球団社長”が亡くなってしまった。 人が死ぬとき、この世での功績におうじて《1つだけ【願い事】を叶えてくれる》と考えたらどうだろう。 まぁ、私程度では「エッチビデオの後始末」くらいしか望めそうも無いが、 “中埜・球団社長”が「1回だけ“阪神タイガース”を優勝させて貰えまへんやろか?」と 神様、それも勝負をつかさどる神様にお願いしたとすれば・・・ 「う〜ん、1回だけだぞ」と“勝負の神様”が言ったとしても、彼の功績を考えれば不思議ではない。 それほど、この年の“阪神タイガース”は異様なまでに強かった。 今年4月30日に“根本 陸夫・ダイエーホークス球団社長”が心筋梗塞で亡くなった。 奇しくも根本氏が愛し造り上げた2チームによる優勝争いの末、 “ダイエー・ホークス”が初優勝(ダイエーとして)を飾った。 振り返ると今年の“ダイエー・ホークス”は、当初の予定とは違う戦力が次々と良い方向に具現化し、 去年までとは全く違うチームに変身し勝利を重ねた。 そして『劇的・あまりにもカッコ良すぎる勝ち方』が異様に多かった事もみなさんご記憶のはずである。 いずれにしろ、10月23日(土曜日)からシリーズは始まる。流れを掴んだ印象が無いまま、 “ダイエー・ホークス”が日本一に輝いたら・・ “ホークス”のベンチに飾ってある“根本氏”の写真と伴に “勝負の神様”が座っていると判断しようと思っている。 |
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