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大谷貴子氏講演Previous PageNext Page
 大阪の病院から京都の病院、京都の病院から東京の病院と、あちこち電話をかけ、足で探し、たどり着いたのが名古屋大学医学部付属病院でした。
名大に来る日の朝、さおりちゃんも少し状態が悪く、また入院してきていました。
でも元気に私を見送ってくれた。
私は、「どっちが先に死ぬのかなあ」と思うと、涙がぽろぽろぽろぽろ出たんですね。

「姉ちゃん、女の人が泣くのは結婚式の日やで。今頃泣いてどうすんの。」
と、おしゃまにも笑いながらそう言ってくれまして、別れてくれました。
でも結局彼女との会話は、それが最後でした。

 私はちょうど一月目、命が危ないといわれた一月目、名古屋にやって来ました。
病院に来たと同時に意識がなくなり、危篤の状態になってしまったそうです。
全くもう、記憶はありません。

それは記憶喪失とかそう言ったものではなく、医学的に昏睡状態に陥ってしまいました。
しかし、10日ぐらいそういう状況だったんですが、パッとなぜか目が開いたんです。
それから、どんどん良い状態になりました。
その目が覚める時に見た夢は、お花畑があり、川があり、その川に落ちかけるんですが、誰かに足を引っ張られる。
その足を引っ張られた先は、ビ−ルビンのケ−スでした。
この場におよんでビ−ルの夢かと、姉は最初笑ったそうですが、でも小さな時から家族団欒は本当に10年も無かったんですけれども、その時、父が買っているそのビ−ルビンのケ−スでした。
父は離婚をして、私の看病にはなかなか来れませんでしたけれども、心の中では叫んでくれていたのかもしれません。
こじつけですけれども、姉がそんなことを言っていました。

そして状態が良くなったと思っていたんですが、本当はどんどん悪くなっているので、もう仕方がなく、とにかく骨髄移植に踏み切りましょう。私達家族が希望したわけではありませんが、1年前、友人が亡くなったその命日に、偶然にも母と私の骨髄移植がはじまりました。
母は全身麻酔をかけて骨髄液を提供してくれたんです。

 私と母の血液型はA型とB型という、いわゆる赤血球の型が違ったので、母からは870ccの骨髄液が出されましたが、私に届いたのは、たった90cc。
そして点滴で母からの骨髄液が流された時、「こんなもんで助かるの?!」と思うくらい、いとも簡単な骨髄移植でした。

もちろん、自分の悪いガン細胞を殺す為に、大量の抗がん剤を投与されていますから、無菌室の中でのた打ち回るくらいの苦しみでした。
髪の毛は全部抜け、吐き続け、食事も喉を通らず、無菌室の中で一人で過ごすのは、地獄に近い治療でした。

しかし、吐いた後いつも、ニコニコと笑っているんです。
もう頬が緩みっぱなし。

それは姉と白血球の型が合わないと思った、あの精神的ショックの時には、いくらおいしいフランス料理を頂いても、いくらおいしいお寿司を頂いても、砂を噛むような気持ちでした。
でも今度、母から助けられると分かって無菌室に入り、大量の抗がん剤で肉体的ダメージは大きいですけど、「絶対バラ色の人生が待っている!」そう思うと嬉しくて嬉しくて、一人でニヤニヤしていました。

「無菌室の中にいる一番明るい患者だ」と先生に笑われましたけれど、精神的な状態と言うのは、それくらい患者にとって人生を左右するようなものです。

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