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 父はその日、無菌室までお見舞いに来ていました。
主治医の先生が部屋を出られた時、骨髄移植が全て終わった時、「ありがとうございました!」と丁寧に主治医の先生に頭を下げていました。

だいたいワンマンな父でしたから、人に頭を下げるなんてした事がないので、私達はそれだけでも感動していたのですが、頭を上げた途端、「それで家内は何番目の骨を切りましてん。」といきなり聞いたんです。
父は目の前で骨髄移植が点滴で行われている事も見ているし、母も何処の骨を切ったわけでもなく、すぐに起きて来ているのに、「何処の骨を切りました?」というふうに聞いた時には、私と姉はもう大笑いでした。

 今それで、骨髄移植を手話でどう表現しようかと、お話しをさせていただいた時に、こう、輸血でこういうふうに骨髄を取ってこうさする、あっ、これはいい表現だな。
私はA型で入院して、B型で無事退院しました。

すぐに、さおりちゃんのお見舞いに行ったんですが、彼女は最後の戦いをしていました。

もう、会う事も出来ませんでした。

「普通の高校生になりたい」という言葉を残して、天国に旅立ちました。
とても悔しかったので、すぐに骨髄バンク運動を本格的に立ち上げていこう。この地で、名古屋という地。私が助けて頂いたこの名古屋の地で骨髄バンク運動を始めました。
1988年8月3日のことです。
中日新聞を中心に骨髄バンクを広げて行きたい。
大きな大きな反響がありました。
初日に88件のお電話を頂きました。
その中には、「電話を手伝ってもいいですよ。電話番を手伝ってあげてもいいですよ」という人から「骨髄バンクに登録をしたい」という人まで、そして私のお弁当を持ってくる人までいました。

 阪神大震災のボランティア、皆さんも何かお手伝いを頂いたと思います。
私は関西人ですから、被災者の側になるわけです。
けれどもそんな皆様方のご協力が本当に嬉しかったです。
一人一人が出来る事を、出来る範囲で手伝って下さって、今、阪神間の人間に笑顔が戻りつつあります。
骨髄バンク運動、全く同じでした。
登録出来る人は登録をし、登録は出来ないけれども協力は出来るという人もいる。
そうやって、東海骨髄バンクというものがこの地に生まれました。

しかし、民間の骨髄バンクでは何かと不便さを感じておりましたので、今度は厚生省を動かし、日本骨髄バンクを設立する為に、また動きはじめました。

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