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 100万人署名をしたり、厚生省に頼みに行ったり、今を時めく管直人さんみたいな厚生大臣が、その当時いたのならば、骨髄バンク運動もこんなに苦労しなくてよかったろうに、と私は思いますが、当時の厚生大臣はけんもほろろでした。
「国民の皆さんが骨髄バンクを必要としているのならば作るけれども」。
でも「目の前に患者さんがいるんだ」と言っても、「国民の皆さんが必要としていないから。」
でも誰に発病するか分からないんです。
原因があるわけでもなく、遺伝するわけでもなく、伝染するわけでもなく、ある日突然、健康な人を襲ってしまう白血病。
本当は国民の皆さん全部が必要としなければならないのに。
そう言いました。
そして、一人の厚生大臣も多くの皆さんの賛同を得られた中でやっとOKを出してくれました。
民間の骨髄バンクから遅れる事、数年。
1991年12月。
ようやく日本骨髄バンクが誕生いたしました。


さとる君は、中学3年生まで元気に頑張っていましたが、日本骨髄バンクができ、、私に「ガキのくせに」とは思いましたが、「よくがんばったね。」と頭をなでてくれました。
「よくやったよ。」と言ってくれました。
しかし、12月に日本骨髄バンクができ、1月に書いてくれた年賀状の、「帝京高校行ってサッカーやるんだ。」という言葉が絶筆となり、2月の6日に彼もまた、天国に旅立って逝きました。
彼は中学校の卒業証書も間に合わなかったので、彼を追いかけたドキュメンタリーのテーマは「間に合わなかった卒業証書」でした。
また悔しい思いが、私の心を駆立てているかも知れません。
日本骨髄バンクができた時、「これで、私の青春は終わったな」とちょっとキザですけど、思いました。
でもそうではありません。
いま、骨髄バンクという器ができた時に、「中身が充実していなければ意味はない。」
そう思ったんです。

 また新たな気持ちで骨髄バンク運動を始めました。
現在までにもう、700例以上の方が見ず知らずの方から、見ず知らずの方へ命のプレゼントがありました。

さおりちゃんやさとる君は、残念ながら骨髄バンクの無い時代に発病してしまいましたから、その生きるチャンスをもらう事もなく、逝ってしまいました。

でも現在では骨髄バンクがありますから、兄弟や姉妹で提供者を見つける事ができない患者さんも、大きな希望の光が見出せる時代となりました。

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