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 丁度そんな時に、 今度は小学校5年生の白血病患者さんと知り合う事になりました。

サッカー少年で、サッカーボールと彼の顔とどっちが丸いんか、と思うくらい、プクプクとした元気な患者さんでした。
彼は妹がいたんですが、妹は白血球の型が合わない兄弟二人。
私も二人兄弟です。二人兄弟でも合わない人はあわない。
あたりまえの事ですが、私はすぐに姉との白血球の型が一緒だよと教えられたので、「兄弟がいれば合うんだな。」ぐらいに思っていたんですが、合わない家族がそこにはいました。

 その子達のお母さんは、兄弟姉妹で白血球の型が合わない場合、どうすればいいのか直ぐに考えられたんです。
他人さんから頂くしかないと考えた時に、もう形振りかまわず社会に向けてSOSを発信されました。
一番反響が大きいだろうと思われる女性週刊誌に「私の息子を助けてください。」というのを出されました。

「1万分の1の命を下さい。」
と書いてあったんです。

それを私がたまたま東京の美容室で髪の毛をカットしてもらっている間に、パラパラと見ている雑誌の中で見付けたんです。

すぐにそのお母さんに連絡をとって「私に何ができますか」、と聞いてみました。

「何か、お手伝いができるでしょうか。」

当然、京大病院で一緒に入院していた、さおりちゃんの事が頭をかすめます。
このさおりちゃんを助ける為にも、そしてこの目の前にいる、さとる君を助けるため、他人さんから提供者を募る。
「それをやろう」と、今から思えばそれが骨髄バンク運動の第一歩だったような気がします。

 当時「アメリカでは骨髄バンクが出来たらしい。」という情報が入ってきてたんですが、「じゃあ、日本の骨髄バンクは何処なんだろう。」、「何処にあるんだろう」と考えた時、この経済大国日本に骨髄バンクが無い筈はないと思いました。
すぐに病院や関係各所に回って骨髄バンクを探し始めたんです。
私にできる、今苦しんでいる患者さんたちのお手伝いへの第一歩でした。

いろんな病院に回りました。

小児病棟は何処でもあるわけですが、そこに行きますと、3つや4つのとっても可愛い子供たちが抗ガン剤で頭の毛がすっぽりと抜けたそのクリクリ坊主の頭で走りまわってるんですね。

一見、元気に見えますけれどもガン患者さん、そして病室の隅ではお母さん方が涙をぬぐっておられます。
3つや4つの子のお母さんですから、私と同じぐらいの年なんですね。すごい辛かったです。

そのお母さん方は、子どもの看病をしなければならないから骨髄バンクが何処にあるのかとか、どんな治療法がいい治療法なのかとか、考える余裕もないんです。
私に縋ってらっしゃいます。
私もどうして良いか分からない。
そんな時、私は自分の身を考え、「私は一日でも早く骨髄移植をして元気になって、この人たちを助ける事をしなければならない」と思いました。
そしてその頃初めて、姉との白血球の型が合っていた5月から、当時11月でしたけれども半年間、合っていたという事は、どれほど素晴らしい事で、どれほど私に生きるチャンスを姉が与えてくれているんか、という事、初めて分かって感謝をし始めたんです。

合っていて当然とか、姉が私を助けてくれて当然とか、そういう問題ではなく、心から感謝をすべき事柄だったんです。

11月の初めに、大阪の骨髄移植の決心をして、骨髄移植の専門病院を訪ねました。
東京にいましたけれども、治療になると、「やっぱり家族のいる大阪がいい」だろうと思って、大阪に帰ったわけです。

私は働いている場所が、ある所の大学の講師でしたから、9月から3月までは、後期授業を受け持たなければならないので、「4月から病院に入らせて下さい」と頼みに行ったんです。

 骨髄移植をする為には無菌室という、患者は余所からの菌に耐えられない為そういった部屋が必要なのですが、その部屋を予約に行ったんですね。
私と姉との白血球の型を先生に渡しました。
アメリカで検査された検査結果は封筒に閉められて封がしてありましたから、見たこともありませんし、疑った事もありませんでしたので、そのまま渡しました。

私はのん気にも4月から病院に入りますからと、話をしているわけですが、封筒をビリビリと開けて中身を出されたその担当の先生はパッと見て、「あれ!おうてへんで。」とおっしゃったんです。

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