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 でも私には1つ希望の光があります。
それは退院したらすぐに姉との白血球の型の検査をすることでした。

姉は当時アメリカに住んでいましたから、アメリカまで家族で検査にでかけました。
「10ccほどの採血ですみます。」と言われた時、ごくごく簡単な事で人間の運命が分かれるという事。楽しみでもありますが、不安でもあります。

この10ccほどの採血で、「あっていましたよ。お姉さんと骨髄移植ができますよ。」と言われれば万歳ですし、「でも残念ながら…。」と言われたら、一人っ子のさゆりちゃんと同じ状況になるわけです。

とても恐い検査でした。

でもその検査結果は、最初は姉と白血球の型があっていると、そして「いつでも骨髄移植ができますよ。」
とても希望に満ち溢れた答えでした。
父と母と姉は、もう、もろ手をあげて喜んでいるんです。
実は私一人、せっかくのチャンスなのにそんなに心から喜んでいなかったんです。

理由は2つあります。

ひとつは、「苦しんでいる妹がいるんだから、お姉ちゃんが助けてくれたっていいんじゃない」と非常に甘えて怒った考え方。
「感謝をする」、という気持ちを持たないそんな私でした。

もう1つの理由は骨髄を今の状態で受けたら、8割の患者さんが助かります。10年、20年前は白血病はほぼ全員が死んでいる病気でした。
当日8割と言われれば、父や母は大喜びをします。
でも私はすかさず、「私は2割に入ったらどうすんの」と言って、斜に構えてしまいました。

もともと前向きに生きるとか、そういうタイプではなく、いつも否定的に物事を考えていたからかもしれません。
「私が2割に入ったらどうすんの。」という言葉に、家族は返事ができなかったようですが、もし「このまま5年、10年、いい状態が続いていって、骨髄移植をしないで良い状態になったらいいのになあ。」と患者は思うわけです。

でも心の隅では、「もし状態が悪くなって、どうしようもなくなったら姉に助けてもらおう」と思っていました。

甘えた私は、できる限りそういう怖い雰囲気の治療は、やりたくない。たぶん私自身が誤解をしていたんだと思いますが、名前からくるイメージで怖い怖いと思っていました。

私はそういう気持ちで、病気からできる限り離れようとしていたわけです。
しかし、ポケットにはいつも抗ガン剤が入っています。
白血球の数がどんどん増えてくると、抗ガン剤を飲まなければなりません。

私の中の白血病細胞は、その時にはおさえられているけれども、ガン細胞ですから火をふきはじめると、際限なく増え始めます。
その爆弾が爆発する日は誰にも分かりません。
時限爆弾を体の中に抱えているようなもんなんです。
私は多分長い間爆発しないだろうとそんなふうに、多可を括ってました。

 ちょうどそんな時です。

父と母の離婚が決定しました。
もう長年夫婦仲が悪かったんですけれども、ようやく裁判が結審に終わりました。
でも勝手なもので長年中が悪かったくせに、私が病気になってしまったら、いきなり仲がいいと申しますか、二人で話し合わなければならない事がいっぱい出てくるものですから、もう離婚なんてそっちのけで、一生懸命私の治療の事を考えていました。
そして父などは「もう一度復縁をしたい」と離婚した直後に言っていました。
私と姉の方が父と母に三行半をつけたんです。
それはこういう理由からでした。

「お父さんお母さんこそ、もうガン年齢なんだから、後30年元気で生きてられるかどうかわからへんよ。元気な間にそれぞれがそれぞれの人生を楽しんだほうがいいって。そして、80、90になってお茶飲み友達がお互いに必要で、それで又お互いを必要としているんだったら、またくっつけば。二人それぞれ楽しい人生を歩んでください。」

そう言って結局、父や母は別れ、家族は全員バラバラになりました。

 でも病気をする事によって住まいは別々になったけど、心は一つになったかもしれません。
父や母は慰謝料や物を渡して別れたわけですが、そのうちの一つは家でした。
家という建物でした。家を取り壊して新築をしようという時に、設計を私に任されました。

この家ができた最初のイベントというのはちょっとおかしいですが、「私のお葬式だろうな」と、そんな切ない事を考えながら家の設計をしたものですから、実家に帰るたびに思い出します。

大きな間口で「ここに祭壇を置いて、こういう人がお焼香に来たらここにこうして」なんて、そんな事を考えながら、私は家を設計しました。
まだその話は父や母に話した事がないものですから、実家に住んでいる母も感付いてないようですが、私はいつもそれを思い出します。

そうしているうちに私の方の状態も安定してきて、私はなんと仕事もできるという所まで元気に回復してました。

大学院を卒業してそしてアメリカまで検査に行き、そして家の設計に携わり、9月になって「働いてみませんか」と声をかけていただき、単身東京に出かけて行きました。
東京で働くという憧れが有った訳ではないんですが、東京に職が有ったという事、そして両親から離れられるという事が大きな喜びでした。

 父や母は親の立場からしたらそうでしょうが、私を腫れ物を触るみたいに付き合います。
例えば食事が出てきてお箸だけが出ていないとしましょう。お箸ぐらい元気なんだから自分で取りに行けるんですね。
ポロっと「お箸が出てないよ」と言おうものなら、お箸が槍のように飛んでくる。
表現はちょっとオ−バ−かもしれませんが、それほど母は私の一挙一動をずっと見ていて、私が快適にすごせるための事しか考えていないんですね。
それは患者にとってはとても疲れる行為でした。

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