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 そういう事が分かった時、隣の病室に入院して来た一人の女の子と出会いました。

その子も私と同じ白血病です。でも、私と同じ様にどこから見ても白血病患者には見えないくらい元気な中学生でした。

 私はその頃には、父や母に白血病の本を買ってきてもらい勉強しはじめて、白血病の中にはいろいろな種類がある事を知りました。

私がかかってしまった慢性骨髄性白血病という病気は、最近では、お相撲さんでありました蔵間さんが同じ病気で亡くなりましたが、慢性骨髄性白血病は、骨髄移植でしか治らない事を知りました。

でも、言い換えれば死ぬ病気ではなく、移植で助かるかもしれない病気であるという希望の光でもあります。

移植というからには提供者が必ず必要だという事は、すぐに理解ができます。提供者となり得る人は兄弟・姉妹で一番高い確率であるという事も勉強して知りました。

気の強い所がそっくりの姉が一人いますから姉がきっと私を助けてくれるだろうと非科学的なんですが、そう信じていたんです。
姉との白血球の形を調べればいいんだ。
白血球の型というのは人間、誰にでもあるんです。

 A型・B型・O型・AB型と赤血球には4種類しか型がありませんが、一方、白血球にはたくさんの型を人間は持っています。その白血球の型を合わせればいいんですが、その検査は手からの採血のみ、10ccほどの血液検査のみで分かります。

私にその白血球の型の検査のできる姉がいる。それは大きな心の支えでした。でも、隣の病室に入院して来たその女の子は、ある晩私と仲良くなった時、自分が一人っ子である事を私に告げてくれました。

一人っ子だからお姉ちゃんが欲しかったのと、甘えてきたんですが、甘えられて心は嬉しくありませんでした。
その子が死んでしまうと思ったその瞬間、その女の子を突き放してしまいたいような、「この子が死ぬのを私は見るのはいやだ。」そう思ったものですから、そんな気持ちにかられました。
しかし、その中学生の「さおりちゃん」という女の子は、自分の病名を知りませんから闘病生活を、楽しく明るく過していました。

中学3年生、高校生になりたいという、だれもが当然に持つ夢で高校受験の為に勉強していたわけです。そして病院の中でいやな事があってもそれを明るいジョークで笑い飛ばしてくれるような、心が弾むような、そんな可愛い女の子でした。

 私はそれでもそのさおりちゃんが、生きるチャンスを持たない、つまり一人っ子だからもう、兄弟・姉妹から白血球の型を見つける事が不可能だという事を知った時点で、すぐにさおりちゃんのお母さんをこっそりと病室に呼びました。
「今からでも遅くありませんからお子さんたくさん作られたらいかがですか。」とってもバカな提案だったと思いますが、それが精いっぱいの提案だったんです。

さおりちゃんのお母さんは、こうおっしゃいました。
「さおりは終着駅が東京駅だとしたら今もう、浜松まで来てるって先生に言われてる。ひかり号は名古屋を通過したらもう東京駅までノンストップだから、さおりは終着駅まで走って行くしか方法はない。それにね、白血病の子を抱えて、妊娠、出産する気力も体力も、もう残ってません。」
とおっしゃった時には返す言葉がありませんでした。

 私はすぐに医学書の紐解いたんです。医学書の最後の方に、もし兄弟姉妹で同じ白血球の人をみつけられない場合は、非常に稀だけれども、他人からも見つける可能性はある。

その確率が何分の一で、もしくは何万分の一で、という事は当日はまだ書いてありませんでした。

ただ0(ゼロ)ではないという、この少ないかもしれないけれども可能性に一つ、また私は喜びを見つけました。
すぐに、そのさおりちゃんからみて他人さんを考えてみたわけですね。

白血球の型を検査するのは、10ccの採血でいいわけですから、「手当たり次第に彼女の周りにいる他人さんにお願いをしてみれば、同じ白血球の型を持つ人を見つけられるかも知れない」と単純にそう思いました。

私とさおりちゃんを毎日看護してくれている看護婦さんも、さおりちゃんから見れば他人さんです。

掃除のおばちゃんも他人さんです。主治医の先生も他人、私の母もさおりちゃんから見れば他人です。
そうやって一人一人声をかけはじめたんですけれど、当時京大病院どころか日本全体で骨髄移植をやっている病院はまだまだ少なかったので、看護婦さんも知識は全くありませんでした。

他人さんから同じ白血球の型を見つけるなんて、鳥取砂丘の砂の中に一粒のダイヤを投げて、それを探すようなものだから、誰も希望を持っていませんでした。
でも、私はどうしてもその子が死んで行くのを見るのはいやで、何とか方法はないものだろうかと考え続けていたんです。
でもその子は、私の心配をよそにどんどん元気になって中学校に戻って行きました。

テニス部のキャプテンをやっているという事で、退院したらすぐにテニス部に戻り、又普通の中学生として毎日をエンジョイしていました。
このまま私が心配することもなく5年、10年元気で彼女が居てくれたら、「もしかして医学の進歩で骨髄移植よりもっと他の治療が出てきて、彼女は助かるかもしれないのに」、そう願っていました。
そう見えるほど彼女は元気に中学生生活を送っていたんです。私のほうが彼女よりかなり遅れて退院しました。

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