本宿の古道

中世以来門前集落をなし、江戸時代には街道南側に十王堂、秋葉堂、牛頭天王社、稲荷社、神明宮、北側に薬師堂、不動堂、一里塚を配し、法蔵寺領を中心に浄土宗の村落を呈した。 東海道道中膝栗毛によると、「みほとけの誓いと見えて 法蔵寺
なむあみ袋は ここの名物」
とあり、早縄、餅団子が名物であった。

近藤 勇の首塚のこと。 近藤 勇は慶応4年「1868」4月25日に官軍によって処刑され、首は三条大橋河原にさらされましたが、同志が盗み出し徳川氏ゆかりの法蔵寺に首を埋葬したことが、法蔵寺の本山にあたる誓願寺「京都」の旧記により、判明したものである。墓石には土方才三ら同志の名前が刻まれてある。

旧東海道の町並みを見下ろす南の台地を西に本宿神明社の急坂を下りる手前に、小さな地蔵堂と行者像が祀られ、手荒い石がある。行者さまは江戸時代のものであるが、とくに手荒い石は鎌倉期のものと伝えられ、古道の1つの立証点と見られる。住宅が建て込んで寸断されてはいるが、江戸時代前は稲荷社があって神明社の急な石段は、参道であったとする見方が有力で、古道は神明社の森の南に出て田のなかの畝道を東海中学校に向かったようである。

さて、「延喜式」にある三河国駅・鳥捕・山綱・渡津に十頭の馬「都えの緊急の連絡早馬」のあるうち、山綱駅家郷だけが現在どの位置に比定されるかは、各説あって定かでない。 浜松市内伊場遺跡から山綱駅を証する木簡が出土したものの、位置については依然としてロマンの彼方である。中柴・石の塔・天神と見え、古道の可能性はがある。東海中学校の社会科の教諭によると「山綱・本宿村の入会地あたりが山綱駅家郷跡とする説を支持して居られ、この位置は古道定地の北側に接し、今なお古い断層が認められ、往昔は古い井戸跡もあったとの伝承から一応可能性はある。 以下略す。東海中学校の運動場を斜めに横切って、今なお、見事に古道の入り口が森の中へ導く。山のなかは、愛知県下随一の古道感で何百年の時間が静止したままの佇まいである。

「注」山綱駅家を探るのは文書だけであり、先の木簡以外に文献史料はない。憶測を
逞しくすると、物部氏族が西三河に存在したことから、あるいは、駅長も物部
一族とする可能性も考えられる。地名が残っているから山綱「山豆奈駅」は確か
であろうが、強いてその位置を求めるならば、西の本宿への可能性を考えておきたい。 「かっこ注」以前は「平安鎌倉古道」の著者・尾藤卓男先生の文献によりました。 文中に郷土史家小野田昇次氏のご意見を文献に従い、史料とさせて戴きました。 以上、

なお、「かっこ注」以降は岡崎市史396n参考とした。 本史編集子・鈴木幸朗
2002年「平成14年」6月吉日 に記す。

以上、縷々、本宿町と町内を縦走する諸街道・「1」平安鎌倉街道は本宿町欣浄寺の直ぐ裏と梨の木墓地の北面の歩道が、平安時代・鎌倉時代「京と鎌倉」をつないだ鎌倉街道であることを、尾藤卓男先生の貴重な歴史史料から知ることができました。さらに、私たちの本宿町にはこの平安鎌倉街道の北側50b近く旧東海道・現東海道・さらに「旧本宿村役場を挟んで」日本のあらゆる「政治 経済文化生活・さらには情報、あらゆる総括した、我が国の最大動脈「国道1号線」・第2東名樫山インターえの「国道473号」と東名高速道路が近くを仰ぎ見る高架。日本のなかの小さな町に150b内外の巾に、古今、4本の主要路線が町の中心を束ね、希に見る町である。旧村役場を「道資料館」として保存するのもよいのではないでしょうか。

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