古代三河
約1万年前は琵琶湖数倍の海湖と考えられ、地盤沈下・隆起があり、氷河期を繰り返し
海水が島国日本を陸地続きとなり、大陸から大型動物が日本に渡り来て、それを追い人間もまた大陸から往来し、化石でそのことが裏づけられている。更新世は干し上がっていた。
稲作の初めは岡崎市248の道沿い青木川付近の地下1bで稲種と共に形跡が出土し、
稲作は弥生時代2/3世紀とされ西日本の遠賀川土器が出て交流を推定する事が出きる。
この事は人が山野で草木根葉実の採取のみ生活から農耕と狩の生活の画期的変化である。
古代三河3駅家の1つ。山綱郷は岡崎市山綱町鎌倉街道の交通の人馬中継所で馬が10頭
地方の異変を京や幕府に連絡の手段として常置し、豪族の物部名と共に、古代の木簡が奈良正倉院に保管され、物部の豪族の存在がこの地方で有力視されていることがわかる。
平安初期に三河国から京に上り、国家官僚で貴族のなかで、物部敏久は政治力を発揮し、高官の左弁官で小納言の上位法律家で、日本律令に関する延暦21年「802」の文献でわかる。三河の地方人物が正五位上で諸文献に書かれている人物は敏久が最初であろう。
三河額田一揆は寛政6年「1465年」に額田井之口砦を拠点として、幕府に反抗し鎌倉街道を遮断する行動で、守護細川成之は幕府の命で討伐を図ろうとした、牢人一揆に下級幕府官僚足利氏族の反幕思想で松平信光や三河国人牧野・西郷等によって鎮圧した。
一部は駿河丸子に逃げ駿河の守護今川義忠に討たれた。額田南部の丸山、大場・高力、片人、黒柳、芦田諸氏が井之口砦を拠点とした、街道一揆「荷物略奪」であったようである。
額田天恩寺は額田を支配した足利氏族鎌倉幕府ゆかりの寺で、寺伝によれば尊氏の遺命で義満が弥天に命じ貞治元年「1362年」建立、足利尊氏が信仰していた延命地蔵菩薩。現存する仏殿は2代将軍足利義詮の建立、国の重要文化財「国宝」である。隣の医薬門はやや遅れて建てられたもので、国の文化財指定で足利氏族衰退により、天正の頃作手城城主奥平氏が再興した「1591年」。吉田城主池田輝政が片寄郷を安定させ妙心派となり、慶長7年「1602年」79石の朱印状で経済的に安定した。義満自筆の「広澤山・天恩寺」がある。国宝2点は仏殿地蔵堂は禅宗模様の仏殿形式で3間入母屋造りで、檜皮葺き南北朝時代の特徴をよく表し、傑作で優美さを保つ。室町時代と推定される医薬門は切り妻造り葺きで仏殿に並んで建てられている。庭園と石垣は一見に値し額田町の文化財。
山中城は舞木町医王山山頂、戦国時代の山城である。通称岩尾山の山の頂上に回廊式居城で東海道筋と吉良街道の要点に位置し築城は不明である。南北朝時代に三河に勢力を持つ西郷氏が大永4年「1524年」手中にし近郷を横領した。このため安城城の松平清康が攻め落とし岡崎城に入った。「三河物語」。駿河の今川氏が松平氏に普請させ、今川の三河進出の拠点とした。
桶狭間の戦いで今川義元は織田信長に敗死により、松平元康「のち家康」が勢力拡大の拠点とした。遺構は196bを主に東西400b、南北200bの尾根に曲輪を巡らし、大規模な典型的山城である。さらに松平氏が補強した。これは古い部分と比較的新しい部分がある。岡崎市遺跡でハイキングコース好適で市指定でもある。