平安・鎌倉街道「三河古道」

平安・鎌倉街道「三河古道」が本宿を通ったコースと、東海道との関わりを検証する。
太古の東海地区は琵琶湖の数倍の湖海といわれており、学説でもこの説が通常化され、2000年に刊行された「本宿千三百年史・岡崎東部額田」で、この事が書かれているが、太古凡そ510万年前の東海地区は広い湖で不安定な地殻及び隆起な地形であった。
さて、平安・鎌倉時代は凡そ旧東海道が、「うみ道とか、海道」と呼ばれていた文献を見るが、琵琶湖の数倍の大きさの「湖底の中の陸地」であったことを如実に裏付けている。 その後において、湖底の中の陸地が隆起し始めて、とくに三河東部ゃ知多半島が著しく顕著な隆起を示し、本宿当たりの地形は海岸段丘として、現在の形態に安定している。
さて、1000年も前「平安」の東海の道は、獣と狩人が共存していた獣道を足で踏みつけた自然道が、鎌倉・室町・江戸時代と人間の活動圏が広がり、生活圏として、情報圏で道が発達して今日に至っている。今日の平成14年・2002年の現在の郷土本宿は「希に見る道の要害化」と言っても決して過言なことばではないであろう。
なぜならば、「1」に東名高速道路が「山間の鰻の寝床」の静かな町を、東西に縦走し、完全に静かな町を2つに分けた。それに並行して「国の超一級国道1号線」が、本宿町の頭から尾の部分まで併走し「4カ所の地下道」で生活道路が結ばれている。国道473号が、第2東名道路「樫山インター」と結合され、近い将来、一つの町にさらに交通地獄が、起きないように将来的にさらなる対策が必要な時が、到来する。と言えそうだである。

さて、1000年前の平安・鎌倉時代の「我がふる里」を回顧してみようと思う。
「本宿千三百年史」に平安鎌倉街道は、遠江より三河国に入るが、豊川も矢作川に似て
中世に4回も氾濫を繰り返し、豊川渡河の位置が明白でなく、やがては、宮路山から山麓を伝い本宿の出生寺「のちの法蔵寺」裏から山綱町「山綱町は平安前期に駅家郷「古代道の人馬引継郷」が指摘され、「東海中学校付近」から、山中八幡宮の横より藤川に入る。道コースを「本宿千三百年史」に書いたが、このほど、尾藤卓男先生著書「平安鎌倉古道」を読み、より明確な鎌倉街道を「本宿の地」を辿ることができ、喜んでいます。
「前略」薪作りの古老の話しに、豊興工業の東の古道より南に古い石仏が並んで、なかに一石五輪塔も見受けたという。ここに火葬場があったが、今は何の跡もない。古道は菖浦が入りに出る道が正解である。対岸を見る菩提院辺りから川を渡る。菩提院は応永十五年「1408」竜芸師の開祖になり浄土宗西山深草山で阿弥陀如来を本尊とする。「竜芸和尚が眠る墓地は豊興工業正門から二十b北の蒲郡宮崎街道沿い」「」内は編集子追記」。
地元郷土史家の小野田昇次氏の話によると、菩提院から鉢地川左岸沿い法蔵寺裏山に出る古道は、鎌倉街道に何の関心のない者でも、ごく自然に口にしていると言う。ただし、昔の鉢地川流路は現在よりも西よりで法蔵寺前から古城にかけて、大きく曲がりくねり北寄りにながれていたとみられ、古道は裏山から門前に出ていたかは決し難い。いずれにしても、鉢地川左岸の古道は往時の道影を残し、街道史話の一つも聞けそうな道である。
多くの学僧が隠居寺に通った道である。眼下の円如が池から南から西へ丘陵の中腹の道も新しい道路で中断されている。多くの石仏と墓場前の道から見下ろす工場の屋根は、明治から大正期に栄えた近代資本主義の陰影を呈している。
法蔵寺のこと。 天武天皇「天宝元年「701」僧行基が十一面観音を彫り、創建となる。天皇のお后の安産祈祷を行基に命じ無事安産されたことから法相宗二村山出生寺と号す。

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