「35話」 東海道山中村
八幡宮の鳩穴に徳川家康が「三河一揆」のとき逃げこんだ。
東海道沿いの山中村「藤川宿の手前左の八幡宮の森の中」に、徳川家康が三河一揆
のとき、三河の僧呂や農民に追われここ山中村の八幡宮の森の穴に逃げ込んだ。
大勢の追い手たちは、この穴に家康が逃げ込んだとして、槍で突き入れたところ白い鳩が3羽飛び出し、鳩が居るぐらいなら家康は居ないといい、そのまま行き過
ぎて家康を逃がしてしまった。という穴が現存する。家康は強運である。
「注」家康の生涯三度の危機「1」三河一揆
「2」伊賀越え「3」三方が原の戦い。
「36話」藤川宿の広重絵は宿場の棒鼻で役人が大名行列のなかに、天皇か幕府に献上する馬が宿場に入るところを画に描いたもので、広重の最初の東海道の旅は天皇に献上する旅に一緒旅といわれ、献上馬の背に五平が乗せてあるところが見える。
「37話」岡崎宿は家康が居ない「抜け殻」の岡崎になった。
関ヶ原の戦いで勝利し「天下を取った」徳川家康は、直ちに江戸徳川幕府によって江戸城や江戸に堀を造り、橋を架け「日本橋」と名付け、下町を造成し東海道に五十三の宿場と一里塚を造り、日本橋を日本の道路原標と定めた話は有名で、この時
、誕生地岡崎から「家康も三河武士」も、江戸に移住してしまい、家康と三河武士が不在で、家康も三河武士も居ない岡崎は将に「抜け殻」化となつてしまった。
「38話」 岡崎城の城主田中吉政が岡崎城下町を大改革をした、東海道の筋道を二十七
曲がりを造り、岡崎城の防衛及び城下町を著しく発展させた。伝馬まちを中心に東海道を27のまがり道で結び、賑やかで発展した岡崎の町造りは特筆に値する。
「39話」
岡崎城下の矢作橋は「天下普請」の橋といい「工事は幕府によって行われた」
昔の矢作の渡しは「渡し舟二艘を四艘」にふやす命令が古文書に見られるが、江戸時代の岡崎は徳川家康の誕生地ということで、東海道に架かる矢作橋は「天下普請」の長橋といわれた。
古書に「星霜重なりて行く河水変わらずして悠々たり。四海の波風穏やかにして参勤交代の諸侯など、弓を袋にして威風将に橋上に凛々たり。
「五彩の虹を天に架せしむ長橋は
ここの矢作の長橋をいうことなり。」 とある。
「40話」 郷土誌から見た、徳川家康「幼青年時代」に諭した三河の二人の僧侶の教え。1話・家康か幼小八歳のとき、尾張の織田に人質で匿われ、安城城が今川義元の攻撃で落城し織田信秀と家康幼少「竹千代」との「人質交換」で、解放されるや岡崎城に戻り、二十日余りのちに
ふただび、駿河の今川義元のもとに人質として取られるこの間、竹千代は竹千代の伯父が本宿法蔵寺七世法主「教翁和尚」が居り、父母なき竹千代を伯父教翁が寺に招き、文武を教えたとされている。法蔵寺にはこの時の竹千代が手習いの松「草紙掛けの松」が現存し、現在の松は三代目の松である。
伯父教翁は竹千代に「運は自然に待て」と教え、教翁自ら恵比寿天神の像で「魚釣り」を示し「幸運は自然に辛抱強く待つがよい」と父母なき竹千代を諭したしは伯父教翁である。2話・岡崎大樹寺の登誉和尚の「厭離浄土・欣求浄土」教えは家康再起をさせた事で有名。