「28話」 二川宿・東海道遠江から三河に入って最初の宿場が二川で、元は大岩と
柄沢の2つの宿があった。東海道の宿場は内残念ながら、二川は貧乏宿で広重の
五十三次の画もお世辞にも繁栄の宿とは言えず、吉田藩では賄いきれず幕府領に
支配され、寂しい二川宿は「猿が馬原」といい、この野原で名物柏餅「勝和餅」
を売っていた、
女旅人3人が柏餅に見とれて買いそうな気配が画から感じられる。
「29話」 吉田宿は豊川の豊富な水運と城下町で昔「今橋」「吉田」「豊橋」と変わり、
茶屋と色気の賑やかさ、「2階から鹿子の振り袖が客招く」。広重は豊かな水量の
豊川と工事中の櫓から大工が下を見ている滑稽な画である。
「30話」 古書に「昔・持統天皇が三河の豪族が朝廷に従うよう、三河宮路山に行幸、
のとき、油を献上した事からこの名が付いたという。御油赤坂は姫街道の合流地で
旅人を慰める繁華の宿が広重の画にまとめられ、「寄らせ」「入らせ」「いい娘いる
よ」「相部屋御ざらぬ」夕闇迫る御油宿は賑やかで、御油宿は格子続きの家々が続き
当時の風情を偲ばせている。御油の東海道松並木は国指定の文化財で資料館もある。
「31話」
御油宿と赤坂宿は16丁と近く芭蕉は、「夏の月
御油よりいで赤坂や」を
残すほど近い。お色気の多い宿で広重も旅籠の部屋の様子を克明に描き、現在も
大橋屋「鯉や」慶安2年「1649」は健在で広重絵の蘇鉄は浄泉寺青々している。
「32話」赤坂宿と本宿法蔵寺村は宮路山麓と松並木で昼でも暗く、賊が出没、婦女子
は馬に乗って長沢峠を越し法蔵寺村立場から、法蔵寺門前町まで歩くことになる。
江戸時代東海道の「立て場」とは、宿場と宿場の間で「ちょっと茶をすすり・休息」
する処をいう。三河本宿法蔵寺は千三百年の歴史と徳川家康「幼少竹千代」手習い
「草紙架け松」とともに、徳川家のゆかりの寺で、江戸時代の参勤交代の大名諸侯すべて下馬車して、参拝の上、門前通過が許された「きつい掟」の門前町であった。
「33話」
江戸時代中頃、三河の法蔵寺は門前町があり法蔵寺詣でと、法蔵寺だんごで
腹ごしらえ、傷んだ草履を新品草履に履き替えるなど法蔵寺門前町は賑わっていた。
法蔵寺団子はやや大きめの米団子をやや大きな竹の串に五つ刺し、たまりでゆっく
り焼いたもので「香りと味ともに絶品」大いに東海道の旅人たちにもてはやされた。
「34話」 そのころ、法蔵寺草履が人気が高く、売れたという。元来本宿は「麻とわら」
の産地で、草履は法蔵寺で祈祷してから売り出しており、「交通安全」の願いを込
た草履として、その人気のほどが分かるような気がする。
また、麻で編んだ袋を
も売っており東海道を旅した「弥次さん・喜多さん」「一辺舎十九の東海道膝栗毛」
この麻袋を「誓いとかけて 法蔵寺
南無阿彌「なむあみ」袋は ここの名物」。
本宿に江戸文学を残し、法蔵寺橋少し西の処、江戸期本宿知行所と大名飛脚小屋があった。1850年頃、尾張藩と紀州藩に限り許され、赤色半羽織、ビロード半襟、胸当て、脚絆腰に道中帯刀を許され朱房十手を持ち、格は武士。健脚、武芸、文才が条件とされていた。