世界の虫の総数÷世界の人口=1人あたり数億の虫

トップページへ

虫を嫌うのは病気です。

虫とうまくつきあうことなしに地球には住めない

なにが不快害虫だ。人間のほうが不快だ。
近頃の日本人は、自然界から脱落した!

子どもがおかしくなっている

最近、子どもがやたらと虫を嫌います。名古屋市衛生局の統計ではセミやバッタといった普通の虫ですら嫌う率の多い世代は子どもと主婦だという結果が出ています。
夏の夜、かつての日本の家屋には多くの虫が飛来し、電球にコツコツ頭をぶつけていたもので す。しかし、今の小中学生の部屋は網戸があっても使用されません。サッシで密閉され、クーラーが常に稼動し、そのうえ無臭の電子蚊取器具もフル稼動してい ます。そして、何か虫が1頭いるだけで大騒ぎし、スプレーを吹付ける。ゴキブリやガなど叩き潰すことすら恐くてできない。
本来子どもは虫を玩具にしていたのではありませんか。いったいなにが子どもと虫を切り離したのでしょうか。どうも自然が少なくなっただけではなさそうです。

「ホタルの里」に虫除けスプレー持参とは

あ る小学校でホタルの里に見学に行くことになりました。ところが子どもに配布されたプリントには持ち物として虫除けスプレーが入っていたのです。ホタルにつ いてはいやらしいほど保護を強調するが、その他の虫は排除してもいいということなのでしょうか。野外にいけばカやブユに刺されるのは当たり前で、それがホ タルの住む自然そのものだということがどうして大事にされないのでしょうか。
一方、クマゼミがうるさいから授業にならないと駆除を依頼した学校もあったと聞きますが、きわめて非教育的な話です。
愛知県のある中学校のPTAが県段階の会合で、年中行事として樹木の「消毒」を行っている と胸を張って報告していました。それで、どんな虫が出るのかと聞くと「よく分からないが毛虫だ」との答え。では、どんな薬剤を使用しているのかと聞いても 「よく分からない」といいます。とんでもなく非教育的で危険な話ではありませんか。
だいたい学校の緑化のあり方を見るとほとんど生態系を無視して行なわれることがふつうで、 人間の基準で樹木などが植えられます。そして本来その土地に似つかわしくない樹木がまるで樹木のサンプル風に植えられるのです。ところが、これを生き物の 眼から見るととんでもないものに映るのです。そしてそうしたとんでもない自然観の延長線上にいわゆる「学校ビオトープ」がさかんに作られているのです。
ある学校では校庭の樹木もろとも大きな金網ですっぽりと囲み、ここにカブトムシの幼虫を大 量に投入し、ビオトープだと言い張っています。しかし、これは自然の遮断であり、ビオトープとは正反対のものであって、子どもに「絶対に自然を見せてやら ないぞ」と宣言しているようなものです。
また、別の地域ではケナフという外国の一年草を植えてビオトープだといいます。いったいどこの国の生き物の住処を作ろうというのでしょうか。

虫がいやならキャンプをするな

家 族でキャンプをすることが流行っていますが、これが異常です。とにかく虫除けグッズのオンパレードです。虫除けスプレー、虫除けキャンドル、虫除けター プ、特太蚊取り線香、超音波虫除け器具、頭にかぶる防虫網などなど。そんなに虫がいやならキャンプに行かなければいいのに。
そのくせ、子どもには夏休みの自由研究も「ついでに」やらせようとして、捕虫網と虫かごを持たせるのです。なにを考えているのでしょうか。こんなことだから夏休みの自由研究の発表会も似たようなものばかりになるのです。
危険な河川敷でキャンプをしたがるのも、「汚い」土より「きれいな」砂利の上で、宴会のような大騒ぎをする「キャンプ」が定着してしまったからです。

ガーデニングとは虫を集めることなのだ

ガーデニングにいそしんでいる人から「どうしたら虫がつかないようになるのか」と聞かれますが、ガーデニングとは虫の餌を育てることであり、虫が集まるのが前提なのです。だから、虫がきらいな人はガーデニングをする資格がないのです。
マンションの部屋の中で「変な虫」が出るからといって「駆除」の依頼もあったりしますが、 たいてい植木鉢あたりが発生源。「実害はありませんよ」といっても「気持ちが悪い」といいます。ひどい場合は「触っただけで体が痒くなった」という人もい ます。これはやはりビョーキです。
「虫ぐらいいてもいいではありませんか」などといおうものなら、変人を見るような視線を浴 びせられる始末です。いかにも虫を嫌うのが多数の人の「一般常識」であるかのような言い方です。でも、世界の人々の圧倒的多数は虫がいてもいいと思ってい るのであり、日本などごく一部の国のごく一部の人々だけが病的に虫を嫌っているのです。

カブトムシは飼うものではない、遊ぶものだ

か つての子どもたちはカブトムシやクワガタは玩具でした。角にひもをつけてペットにしたり、学校で女の子をからかったりする道具であったり、ポケモンのよう に戦わせるための「戦士」であったりしたのです。そして、虫が死ねばポイッと外に放り出す。あるいは学校の机の中で死んでいたりもしました。誰も悲しむわ けでなく、死ねば次のを捕まえるだけです。
ところが近頃はカブトムシやクワガタは玩具ではなく「飼うもの」なのです。子どもたちはすぐにマットがどうの、ゼリーがどうのといいます。はては、ホームセンターで飼育用にとカブトムシの脱臭剤まで売っているというのです。
そしてカブトムシが死ぬと「どうして死んだのか」と飼い方が問題になります。しかし、虫は死ぬのが当たり前なのです。もともと短命だし、すぐに死ぬようにできているのです。いわば死ぬことによって種が生き延びるようになっているのが虫なのです。
こんなことだから、子どもたちはカブトムシをちっとも見ていない。「カブトムシにスイカを やると腹をこわす」などというくだらないことばかり覚えていて、足が取れたらどうなるかとか、角が折れるとどんな動きをするのかとか、潰れるとどんな液が 出るかというようなことはまったく知らないまま過ぎてしまうのです。
そして、「自分の行為により他者に苦痛や死を与える」という経験なしで成長してしまうのです。

共生を拒否する「環境共生住宅」

家 が清潔すぎます。昔、といってもつい最近までの日本の家屋には家の内外に数多くの生き物が共生し、人間とやり取りしていました。クモ、ゲジ、ガ、ハエ、コ オロギ、ケラ、ヘビ、カエルというような目に見える生き物だけでなく、カビ、ダニなど微細な生物も普通に生息していたのです。彼らの住まいは床下、壁土、 台所、天井裏などかなり多様でした。
ところが、近頃の家は床下はコンクリートでカビもなく、壁は発泡ウレタンが充填され、畳の 部屋も少なくなりました。多くの材料には天然系であれ化学薬剤であれ薬剤が処理され、「防虫」「防蟻」「防カビ」「抗菌」と、人間以外の生物が勝手に住ん ではいけないことになっているのです。そしてますます虫嫌いが助長されるのです。
最近の「環境共生住宅」なるものもよく見ると、各家庭で二酸化炭素を発生させないとか、自 然の素材を使用するとか、自然のエネルギーを使うといった部分部分の寄せ集めでしかありません。全体としては自然そのものである虫を排除し、臭いを嫌い、 微生物をとことん追い出すような家になっているのです。床下の土をコンクリートで封殺し、無生物の材料で統一し、微生物ですらその存在を許さない。これで どうして「環境共生」などといえるのでしょうか。これでは「環境共生拒否住宅」ではありませんか。
こうして家からも体からも生き物や汚いものを追い出した日本人は自分の体を自然に適応できないものに変えてしまったのです。花粉、ダニ、カビが悪いのではなく、これらとうまく付き合えなくなった人間の方が悪いのです。
だから、こうしたものを排除するのでなく、これらをむしろ歓迎しうまくやりとりできる家こそ環境共生の名にふさわしい家なのです。

里山だけが自然ではない

「自然に触れる」とか「自然と親しむ」というと里山や森林を思い浮かべるのですが、大事なものが忘れられています。つまり、家の内外の自然です。
家が建てられると周囲の自然は一斉にその家に適応しようとします。微生物や昆虫類は自然の使者です。彼らの方は人間生活に適応し、共生しようとしているのです。彼らとうまくやりとりできずに排除しようというのは自然というものを理解できない人なのです。
家の中の自然を自然だと認められない人が里山や森林に出かけても本当の自然は理解できないのです。目の前に虫がいても「有名な虫」でないと気にもとめないのです。
つまり、部屋の中に飛び込んできた虫とうまくやりとりすることが重要であって、彼らが実害 を与えるならそのつどちゃんと駆除するし、そうでなければ放置する。もともとの「おじゃま虫」などいないのです。だから、いくら庭先の自然が豊富でも、部 屋の中に虫や微生物が住むのを許さなかったり、床下の土壌をコンクリートで封殺してしまうというのは、大きな矛盾だといえないでしょうか。

子どもは虫をどんどん殺していい

乱暴ないいかたではありますが、子どもにとって虫は玩具にするものだからどんどん殺していい。なんの目的も理由もいりません。しかも虫は絶対に子どもを怨みませんし、またそんなことで虫はいなくなりません。
逆に、大人は虫をやみくもに殺してはいけません。だって、利害が絡んでいるからです。とくに虫にそれほど興味もないのに大量に採取して販売する大人は最低です。また、外国産の虫の販売などは法律で取り締まって欲しいくらいです。
だから、虫の供養祭をやりたければ大人だけでやればいいのです。とくに自分は虫をいじめていないと思い込んでいながら、家の周りをコンクリートで固めて虫の居場所を奪い続けている大人や、仕事だとはいえ山を削り続けているような大人は供養すべきです。
しかし、子どもは殺していい。飽きたら外に放り出してもいいのです。そうすれば他の生き物の餌として重宝します。そして、子どもがこうして虫とやりとりすることが大人になってから役立つのです。

生き物の「化学戦争」に参加せよ!

また、虫の持つ化学物質に小さい頃散々影響されることも大事だし、刺されたりかまれたりすることも自然とのつきあいの重要な要素です。
虫たちは植物との間で日夜化学物質を使った「化学戦争」を繰り広げています。植物は光合成 のために葉を作りますが、この柔らかな栄養をねらって虫たちが襲いかかります。植物は食べられる一方では困るので、とくに柔らかな新芽などに毒物を集中さ せます。虫たちはこれに対して体に解毒装置を作ったり、別の化学物質で毒物を変化させたりします。
こうした「戦争」は昆虫同士や微生物などその他の生き物との間でも同時に行なわれ、毒物が自然界全体でやり取りされているのです。しかもこうした毒物は部分的に取り出せば驚くほどの猛毒のものもあるのです。
人間もこうした「戦場」の真っ只中に生きてきたのであり、そうした環境で生き抜くための仕組みを体の中に作ってきたのです。
鼻から入り込む空気の中のホコリをろ過する装置、毒物や体に悪い物質の分解機能、異物に対する免疫機能などです。
ところが、日本人や一部の先進国の人々は自分たちを自然から隔離し、無菌室で生活し始めました。大人だけならそれでもいい。でも子どもには自然の中で生きる権利があります。
「かぶれる」という意味が分からない子、虫の臭いが分からない子、カやハエを異常に嫌う 子、「汚れ」を異常に嫌悪する子、こうした子どもたちはここ数十年の短い間に出現したライフスタイルの犠牲者です。子どもたちを自然の中で育てたいと思う のなら、「田舎暮らし」など必要ありません。虫やダニやカビなどをことさら嫌わない当たり前の生活を個々人が維持すればよいのです。



mushimushi-houdan

ハエトリグモはおもしろい


ハエトリグモはひとなつっこい。どこからともなく現れて、机の角でこちらを見ている。毛むくじゃらの顔には眼が8つも並び、まるでSF映画のキャラクターのようだ。
鉛筆で突つくとさっと逃げる。が、しばらくしてまた現れる。へんなやつだ。
クモが恐いという人がいるが、それならカニを食うな。カニのほうがどれほどエゲツナイ形であることか。

ゴキブリはきたなくない

愛知県版レッドデータブックでは,準絶滅危惧種に指定されているそうだ
屋外性のオオゴキブリ
ゴキブリは体内にバイキンを持たない。バイキンをたまたま体に付着させて歩き回るから、「病気の運び屋」ともいわれるだけだ。
しかし、最近のゴキブリは汚くない。まわりがきれいだからだ。
そのうえ、いくら走り回っても声を出さないからいじらしい。羽根があってもやたらと飛び回らないから控えめだ。
まだ現れてもいないゴキブリをバ○サンで「予防」する人こそ正真正銘の病人だ。

アリは
サボっている者がいる

蛆が幼虫でやや赤い繭状のものがサナギ
アリの幼虫とサナギ
アリの行列をよく見ると、なかには立ち止って何もしていないものがいる。それでもアリか。たぶん、昔のように2B弾で爆破されることもないのでのんびりしているのだ。
オーストラリアに行くとかなり恐いアリがいる。グンタイアリとかキバハリアリなどといって見るからに極悪非道な顔つきだ。
たぶんオーストラリアの引越しやさんのトラックにはヤクザのようなアリが描かれていると思う。

ホタルは
清流の虫ではない

各地でホタルの保護が行われているが、川をきれいにしすぎて失敗することが結構あるときく。
ホタルは田んぼとか池とか曲がりくねった川とか、ある程度どんよりとした水域に生息する虫で、それほど透明度の高い清流を好まない。
いや、あのホタルというのはホタルの仲間の中でもほんの一部であって、かなりの種類のホタルは光らないし、水にも住まないのだ。
光るホタルを踏んづけると大変な非難にあうが、光らないホタルを踏んづけても誰も振り向かない。

嫌われても嫌われても

ゆえなく嫌われる代表格がヒラタチャタテだ。非常に小さくて白い点が動くように見える。畳のへりや本の間、戸棚の隅や壁にもいる。だからつい「ダニだ、ダニだ」と嫌われる。
よくみればシロアリのようにやや透き通ったきれいな体の昆虫だ。
食料はカビ。だからヒラタチャタテをダニあつかいして薬を撒き散らす家ほど、カビが多いのだ。
ザマーみろ。
どこの畳を調べてもたいてい見つかる虫だ
背景の方眼は1mm

みんなが好きな
ゴキブリの歌

ゴキブリは地方によってはコガネムシという。野口雨情の生まれた地域もそうだった。だから「コガネムシは金持ちだ」のコガネムシとはゴキブリだったのだ。カナブンとはまったく関係ない。
お尻につけて歩き回る卵鞘はまるで膨らんだサイフのようだし、水飴が好きだから体が飴色なのだ。
cucarachaとはメキシコの言葉でゴキブリのような這いまわる虫を意味し、英語のコックローチのもとになった。だから学校で歌っていたのは「ザ・ゴキブリ(la・cucaracha)」だったのだ。

外国では夜の蝶

チョウとガは同じ仲間(鱗翅目)の虫で、分けて考える必要性はあまりない。が、例外が比較的少ないので、多くの場合触角の形で分けると分けやすい。
すなわち、触角が細くて先端だけが小さく膨らむものがいわゆるチョウで、その他がガだ。触角が細くても先端が膨らまないものはまずガと見て間違いない。
だから昆虫にあまり関係のない印刷物ではチョウチョがじつはガになっていたりする。
国によってはガということばがなく、ガを夜のチョウというところもあって、それでも不自由しないくらい分ける必要がないそうだ。

ガは
スケルトンがおもしろい

ガの羽根を抑えて綿棒のようなもので鱗粉をすべて取ってやるときれいな翅脈が現れる。ガのなかには最初から翅脈を見せているスカシバのようなものもいる。恥ずかしくないのだろうか。しかし、これぞスケルトン(骨格)である。
ちまたでは骨格がなくても透けて見えるものをスケルトンなどと誤用する向きもあるが、スケルトンとは立派な建築用語なのである。
ちなみに自分の悪行の弁解にお父さんがよく使うストレスというのも本来は建築用語で、「応力」と表現する。




頁頭へ