本宿の人と進駐軍

「 戦争前後の全記録は「本宿1300年史誌より抜粋しました。」
敗戦の後、日本はこれからどうなるか、明日のことは解らない毎日が続いたが、1つだけ安心したことがあった。それは日本に進駐した連合軍が、戦争中教育されたことと、全く違う人たちであったことだ。空襲に明け暮れした日々から解放され、少し笑顔が見えはじめ、また、アメリカ兵が直接見られるようになったのは後であったが、名古屋では早くから見られたであろうが、本宿では見たくても見られない。ただ、東海道を時々灰色のシート覆われたトラックに4/5人乗っており、銃は持っていたが撃つ気配は全くない。
英語でなにやら話しながら手を振ったりしていた。最初は見たいし、怖いなど、家の隙間から見ていたが、その心配がいらない、ことに気づいたのは私だけではなかった。
同じ人間ではないか。陽気な人たちではないか。と思った。私の友達は「ちゅういんガム」を得意そうにしていたが、私はなかなか手に入れることは出来なかった。岡崎では進駐軍がガムやパンを投げて子どもを集め、簡単な英語を教えたり、チョコレートを配ったりしていた様である。また、あれほど悩ました「シラミ・蚤」は進駐軍から配給の白い粉を頭からかぶり、着物や寝具に振りかけたところ退治され、dd tの威力を知った人は多いと思う。

大勢の「買い出し部隊」本宿に来る
物不足は人々を困らせたが、最も困るのが食べ物。本宿では芋、カボチャなど食べていればよいが、名古屋では何もない。大勢田舎に行って食べ物を目当たり次第買って行く。大きな袋を背負い、名鉄電車に乗って遠くから求めに来る「買い出し部隊」と言っていた。
物々交換「ぷつぶつ交換」
大方の人は着物や服と米・麦・豆・野菜など食べれる物と交換していた。昼など一緒に食事をしたこともあり思いでは多く、お互いに生き延びたことを悦んでいた。
お互いに値段を決めて、互いにない物を交換していたからお互いの生活が出来たのである。
僅かな米を芋煮や葉や茎を中に入れた「芋がゆ」は、当時の常食であった。

復員兵帰る
戦後の混乱の社会や経済の世の中で、1つだけ明るい事があった。村のあちらこちらの家、に外地から元兵隊さんが「ふる里本宿」に帰ってきて、懐かしい「我が家」、夢にまで見た「我が子」、「親・妻」の家族に対面して喜びに沸く家があり暗い社会に光明であった。

いくら待っても、「帰らぬ我が子」・「我が夫」戦争の悲劇
たが、、、混乱で行方不明や戦死の報に接しながらも、我が子・我が夫が、もしかして
生きては居ないかと「僅かな希望を真剣な思いに」託して、必ず戻ってくると日夜に待つ家庭も多かった。
とくに痛ましいのは、年老いた老婆が、「息子は絶対に生きて帰る。それまで待っていてやる」と言い続けながら生きて「帰る日」を待ちながら息絶えた老婆の姿は痛ましく、今でも、脳裏から消えることは出来ない事実であった

戦争による悲劇は本宿だけでなく、日本中で広く広がっていた。

ひとりさびしく、子や親や妻の名を呼びながら、この世から尊い人生を果てた
幾百万の戦争の犠牲者の人たち、悲壮に近い平和えの悲願がインターネットを
通して語り継がれて行くことこそ永遠に平和が語り続けられる唯一の道である。
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