戦争時代の本宿村
戦争がだんだん激しくなり、村のあちらこちらから一度に4人も5人も赤紙が村役場から家々に来るようになつた。村役人は国から来る赤紙を只家に届けるだけである。「赤紙」とは、「いますぐ兵隊になれ」と言う、「国からの命令書」である。貧しい家もそうでない家も区別なく来た。役場には兵事係が居て兵隊に行く一切の仕事をする人がいた。
老いた母を家に残して兵隊に行く人、母ちゃんや幼い子を残してゆく人、誰もが笑顔をつくろって居たが、心ではみんな泣いて新米の兵隊さんは自分の家を出ていった。
赤紙が来て兵隊になることをやめることは、絶対にできなかった。兵隊に行って戦争で戦い戦死することは、名誉なことであるとさえ言われていた。
初めのうちは小学校で式があり、どれも励ます言葉ばかりであつた。村人と小学校の生徒で列を作って軍歌を歌いながら日の丸と大きな旗を振ってお宮でも式をした。あまり多く、しまい頃はやめになった。しかし多くの兵隊さんは死んで白い箱で自分の家に帰った。
| 私の一番上の兄さんが兵隊に行ったことを覚えているから書いておこう。 |
| 私が11歳の時学校の先生が「直ぐに家に帰れ」と言ったから、何であろうかと家に帰ったら大勢の人が家にいて初めて兄さんが兵隊に行くことを知った。
兄さんは人前では元気なことを言っていたが、家の人には近寄らず話しもしなかった。 いよいよ出かける時間になって、兄さんは結婚した嫁さんと小さな子どもの所で「元気でな」といって、僕の頭をなでて、家を出ていった。それから一度も会わず兄さんは死んで家に帰ってきた。白い布に包まれた箱だけであった。多くの兵隊さんもこのように死んで帰ったので、死んだ人、残った家族を思うとき、戦争の惨めさ、悲惨さ、痛ましさを語り続けてゆかなければ2度と戦争は起こるように思います。 死んだ兄さんや多くの死んでいった何百万人の人人の御冥福を祈り、平和は大切だ。 |
本宿村の人口の減少と疎開の増加
戦争の最中に兵隊に取られて行く人、兵隊さんが死んで帰る人、町の空襲で死ぬ人、村のあちこちで葬式が頻繁に行われて、村の人口が減少して行ったが、村には一軒に子どもが5、6人いたから、村は子どもと女ばかりになり、子どもも1人分働いた。
本宿村の人口が減少するなか、急に増加する現象が起きた。昭和18年名古屋の今池小学校の学童が集団疎開をして本宿村に来た。「当時は国民学校で集団で名古屋を離れて空襲に逢わせない国の政策であった」。法蔵寺に120人謂信寺に80人位来て、田舎の生活に馴染んだ。大きなお寺の本堂で薄い布団にくるまって、父や母と別れて一人で寝るのはさぞや、寂しい夜であったことであろう。その頃「自給自足」と言う言葉で、「芋や大根、いなご、木の実」など食べれる物は何でも食べた。村の人も疎開の子ども達も着る物・食べるものがなくなり、困ったがみんなで分け合って生活した。風呂など近所の人が焚き木を届けたり一緒に入り、農家の仕事をして本宿村の人と衣文村の人たちと仲良く生活した。
「欲しがりません・・・・勝つまでは。」こんな言葉があった。
主要都市から地方の都市に空襲が広がり、昭和20年7月20日夜、岡崎に焼夷弾爆撃があり、中心部が一面に焼け野原と化した。豊橋は1ヶ月前にやられ焼け野原で次は岡崎だ。と村の人は言い。本宿村は爆撃はなく戦闘機の機銃は4回あったのは不幸中の幸いだった。