隣組と防空訓練
国民総動員法で隣組戦闘訓練や隣組防空訓練が組織化された。それと、衣類食べ物はキップ制になり、隣組を通して少量配給された。お米、砂糖、果物は全くない。無論店でもない。闇価格があって「ヤミ」で手に入れる不届き者がいた。生活するに大変困り、乳を欲しがる赤ちゃんのお母さんは大変困り、栄養失調で死ぬ子もいた。隣組では竹槍を作り赤ちゃんを抱いて、アメリカ兵を刺す訓練をし、竹槍とバケツは玄関に置かないと叱られた。朝昼晩3食はいつも雑煮でいろいろな物が混ざって居たが、うまそうに食べたことを覚えている。夜、布団にはいるのは、みんな夜11時ごろ、冬以外は大きな「かや」が部屋一杯に吊られていて、蚊に喰われない工夫である。が、父ちゃんの居ない夜は寂しいが、家中揃って1つの「蚊帳」のなかで寝るのは、1日で一番楽しいひとときを忘れることは出来ない。蚤とシラミはどの家でも飼っているみたい。

ちなみに岡崎空襲の被害は、全焼家屋6370/半焼家屋175・死者・211・負傷者・357・被家族30299

アメリカ空軍機による名古屋爆撃のパターン、
戦争終期は毎日空襲警報のサイレンが鳴らない日はない。昼は爆弾・夜は焼夷弾爆撃。
いつも、飛行機の飛行コースは大抵同じ。サイパン島発進B29は富士山を目標で遠州灘に上陸三河山間部を北上、名古屋に至るコースが多い。爆撃したあと、名古屋西部の津辺りから南下して伊良湖水道から太平洋上に出る。たまには逆コースになるときもある。
高度は決まって一万bである。何故10000メートルを堅持するかは、日本の高射砲は8000メートルが最高到達点で安全圏の飛行で、悠々として飛行しているように地上から見え、キラリと光る銀色の点に見え、大方の場合、延々として飛行雲をなびかせて、ただ、見上げるばかりであった。日本の戦闘機は滅多に追跡、迎撃つことはしなかった。紺碧の空に5・6機編隊で雲間に堂々たる編隊飛行と飛行雲を延々伸ばしながらの編隊飛行の様子は馴れた感じで緊迫感は少なく、握り拳しで見上げて、為すすべはなかった。

ある日の白昼突然。
私はトヨタに動員され20年の春、昼時。当時「挙母」と言って、自動車工場にタイヤが不足し暇な時があった。いつものように空を見上げ、一万bの高度のB29の5機編隊を眺めていたら、雲の切れ間からb29よりはるか小さい日本の戦闘機が只1機斜めから最後尾に体当たりする飛行機を確認することが出来た。その頃特別攻撃機の出撃する写真を見ていたから「すぐに特攻機だ」と直感した。数秒後黒煙が散った後、b29は黒煙を引きながら、編隊より遅れ始め高度も下がっていた。1分後突然大きく傾き、きりもみ状態で足助の北の山中に墜落した。墜落の搭乗飛行士2名は落下傘で降下し、さらに北の山中に吹き流された。日本の特攻機の破片が小さく落ちてくるのを見たが、尊い犠牲者の姿は見られなく、若い特攻隊員は短い貴い人生を日本の春の空に清く散った短い光景であった。
そのとき、野辺の花も散っていた。
太平洋戦争が始まり、真珠湾攻撃から連戦連勝日本の勝利が続いたが、次第に戦況不利に、大本営発表も本当のことは言わず、沖縄米軍との地上戦、追いつめられた空気が満ち始めていたが「最後に、神風が 吹く」と、信じて、本土で竹槍を使うと言う人も居た。
昭和20年8月15日は焼け付くような太陽がじりじりと昇り、12時ラジオ放送が始まり、誰が、何を、言っているのか、解らずに終わった。後から日本は負けた事を知った。

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