安藤広重の画風と人物・人気
| 外人著書の本に、「恐らく」神々は日本の古き東海道の有様を、それが消滅しない
前に、絵として後世に伝えようとして彼「広重に託したのだ。」とある。
また、広重が歩いた東海道は木版画によって、記録された絵によって凡そ二百年以上の月日の風景人物が停止している。日本の鎖国時代で表面的には変わらなく、東海道は「京と江戸」「皇居と幕府」とを結ぶ街道に変わりはないが、幕府が消え 開国日本が出現して、文明機械となる以前人間のものであった過去の時代「江戸 時代以前」ありのままの人間・自然・生活など様子が、実際の感覚で描かれ残されており、安藤広重の絵は貴重である。私が見るところ、いつの時代も放浪的画家が居て価値ある絵を描く画家もいれば、計画的に描く画家も居て画風をかくが広重は後者に属して、東海道五十三次の宿場絵に見られるように、纏まった形態で纏め今に残っている。そして広重は一筆添書きが書かれ、例えば「一服してこの地の名産さざえを食い・味格別なり。」とか、「八月一日、薄曇り、風強く波高く景色よし、まもなく由比の宿に着く。」などである。江戸時代の東海道の旅人たちは旅費の他に「矢立て」を持ち手帳と筆隅は欠かせない形態道具であった。彼安藤広重の絵を見る限り、特徴として一つの焦点以外は余り絵に含めず一つが 独立した構成の絵が多いようであり、日本人の心の中の風景を重い絵にすることができるが、しかし、広重は一つの風景で満足する。例えば富士山を見ることで満足した。画家広重は相当な食欲大家で酒を飲みながら絵に向かい、世相にしたる感覚と滑稽豊かな人間像が想像され浮かび上がる。 「この街道は風景に富む、薩垂峠の眺望は天下の景勝なり。」と二枚の傑作を書 いているが、何度も東海道を行き来しよく東海道を知っての上であろう。 広重が世界に有名にした画集のなか「東海道五十三次」と題した画集で、角宿場毎木版に江戸・京都を付け加えたものがあり「由比宿の絵で薩垂峠の厳しい断崖の上 から青い海を眺めている旅人を描き数隻の漁船を点在、構図に白い帆を揚げ後ろに雪を戴いた富士を描いて纏めている。 また、数年後「日本名所絵図を纏めているが画集のために広重は、少し低い位置から眺めた風景を描く、実写を好み、人数も舟の数もそのままが多く、見る人に好感を与え、人気ある絵として多くの人にもてはやされるところだ。 だが、晩年において、広重はもう一度同じ絵を描いてる どちらかといえば「失敗作」に属するものであり、彼は危み険な街道端から風景で、 旅人が波の間を走り抜けようとしている絵であるが、富士が背後にあり全景の波が渦巻き押し寄せていて誇張された感がみられ、広重の真価が、北斎風になり、広重特風の画風に描ききれず、彼の最高の芸術に至っていない様に読みとれるのである このスケッチに添えて「薩垂峠の厳しさに大分疲れた、興津の宿に着く頃は日暮れ、途中にてめし、アワビ買い楽しみの旅舎に急ぐ」とあり、彼広重の晩年は体力限界を感じつつの画家生活が伺われ、東海道の風物をもっと元気を出して、日本の江戸時代の価値ある絵として、その姿を残して欲しい。と願う次第である。 画家安藤広重は、武士の第3子として生まれ若い頃は「江戸の火消し」となり、顕著な活躍で地位を得たが、余り仕事が無く「もともと絵の才能」があり、趣味が高じて職となり、最初は天皇に献上馬の団体について東海道を旅して絵を描いた。 |