本宿周辺の中世の戦いについて、 「山中城の戦い・長沢城の戦い」を記述する。
本誌「本宿1300年史は郷土誌であるから、松平清康と山中城主松平弾正左衛門尉信貞入道晶安「松平光重の子」との戦い、と、他は長沢城を守る小原藤十郎との戦いである。「1」山中城を攻めのこと「山中城の戦い」
戦国時代の大永四年「1524」松平清康自ら兵を遣わせ山中城を落城させた。
松平清康は松平信忠の長子だが、父に似ず武勇・慈愛があり、離散した家来たちが戻り、勢力を蓄えていた。山中城は依然として松平清康に反抗していた。そこで清康は山中城を落城させた。山中城城主松平晶安は松平光重の子、左馬之助親貞の譲を受け晶安と称した。父に背き大永四年に自ら兵を進め落城させた。
このとき、松平清康はわずか十八歳、身丈五尺八寸、力量優れ、尋常に二十五歳位に見ゆる。「老功の将も及び難し」とある。松平清康は「凡そ将なるは、味方の将を損せずして敵を下すことを以て上策とする」。
力を持って攻め立てれば味方も、
若干損すべし。策「議」を以てせば、月日を要せず城を乗っ取りすべし」。と申す。
共謀を巡らし大永四年五月二十八日夜に、忍びの兵十数人を山中城に密かに忍び込ませ、また、勇壮な武士を若干名を外に伏せしむ。「雨風篠を突くが如し。」
城内にまさかと思いしとき、番兵どもを一々に射殺、声あぐる。このとき、城外に伏せさした武士この声聞きて貝笛鳴らし攻め立てれば、敵狼狽素肌にて駆け出して上下とも大いに慌てふためき、防ぐこと及ばず也。城は直ちに落ち也。
討ち取りし首・七十三首、倒れ伏す者十六人、味方大いに勝利して凱歌を施行し清康君悦び斜めならず。「この勢いで岡崎城を攻め立てるべし」と檄「げき」を発すなり。とある。
岡崎城の大方は山中城の落ち武者なれば、防戦叶わず晶安入道所詮なく降参せり。晶安の息女を清康に進ぜらる。かくて、西三河大略は再び松平「徳川家」の御旗に属しけるり。
注、身長175a、忍び兵・忍者・忍兵、・スパイ。松平清康は家康の父広忠の父。
注2、清康の最後は三河各城を落とした後、尾張の織田に対抗し俗に言う「森山崩れ」で逝く「横死」した。
注3、三河山中城は2つあり、1つは山中城、他に山中古城「本宿城」共に同族。
「2」、長沢城の戦いの事。「長沢城落城のこと」
長沢城は度々の落城を重ね、今川義元が小豆坂の戦いで軍を進めるに当たり、長沢城や山中城を手中にしているが、本記事は徳川家康が勢力拡大の牧野牛窪城を攻めた以後のことである。「概略」は下記のとおりである。
家康が牛窪城を攻略し帰路、長沢付近が戦略的要所とみて今川勢の小原氏が守る長沢城を攻めた。「地形が山路険しく、通路遮断の適地」と見てこの城を攻略させた。この戦いで本多忠勝は名を挙げ、渡辺半蔵も守将小原藤十郎を討果たした。牛窪城の牧野新次郎成定を攻めて設楽の雄・甚三郎其備を三千余騎で牛窪に向かい戦う。牛窪からの帰路ここを通った家康は険しい山道で、二手に分け御旗に従い山南を通行、城を大火騒動大方成らず、遮二無二攻め、最初の軍勢も家康の応援で加勢、城兵防戦能わず散々に敗北した。本多忠真は敵を突き伏せ、子忠勝に「首を取れ」と言いけるに忠勝十二歳、「われ、人の力を借りて高名せず」、進みて敵をねじ伏せ首を取った。忠勝少年で気鋭鋭く、家康も末頼もしいと悦ぶなり。糟谷善兵衛は駿河に逃げる。