三河一向一揆

徳川家康が逃げ込んだ、 とされる「鳩穴」と 「三河一揆」 とは
「三河一揆」について、三河一揆の始まりは、永禄五年説があるが拠点は岡崎本証寺や上宮寺など、いずれも悪戯者「いたずら者」「暴徒」とされるが司法権行使「検索」 の調査によれば、永禄六年「1563」正月、門徒・武士・農民らが土呂本宗寺、 針崎の勝慢寺、野寺本証寺、佐々木の上宮寺などに集結し暴動化したとなっている。

「平松記」
永禄五年秋の暮に菅沼藤十郎定顕なる人物が、上宮寺などの米を家康軍の兵糧に徴収されたため、3か寺が協議の上で菅沼の許に押し寄せ、家来など打ち倒して米 を取り返した。菅沼はこの事を酒井政家に届け政家は使者を派遣したところ、使者 殺された。家康は政家に検断を申しつけ、政家がこれを実行したので、これに反発 し一揆が起こった。 と言う検索の調査結果である。
「兵糧徴発などの家康の代官的役割に、反発と、「寺内に入ってならぬ」の掟に調査侵入したことによる2点の怒りを門徒衆が爆発行動したと考えられる。
一揆の参加者を見ると、必ずしも門徒だけでなく広い層に及び地主、百姓、僧侶らに至る、家康の政策について不満が誘発原因と考えられる。三河一揆の参加者は家康の武士を含めて6千人か7千人ではないかと言われ、事件の規模から言えば1 万に及ぶと者が、三河一揆に参加したのではないか。 と、考えられている。
山中八幡宮の「鳩穴」が「岡崎市舞木町」の本宮森の中にあり、徳川家康が敵兵 に追われて、この穴の中に逃げ込み隠れたところに家康の追い手が、この暗く蜘蛛 の巣があるような処には居ないと見たが、念のため槍で突いたところ鳩が2・3羽 飛び出して、家康は居ないと言い引き返したという説明がなされている。
「九死に一生」を得た家康が、このときの追い手が三河岡崎の一揆衆でなかったか。 の歴史書がある。家康死後の「東照宮記」に片時も家康は幸運に恵まれている。
と書かれているのも、その一例ではなかろうか。と私は思う。

三河一向一揆に対して、家康の処置
三河一揆衆の討伐は厳しく行われ、最初は東条城から始まり松平忠次に賞を与え、 代官に任命した。数カ所で家康の一揆討ちが続いたが、その年の暮れ治まりかけた 一揆が、年明けと共に活発化し1月11日土呂・針崎の砦で家康軍と激しい戦いが あったが、家康が勝利し三河一揆の首謀者は駿河に逃亡して解体した。
家康軍の放火や馬頭原「美合町」での敵・味方入り交えての乱戦模様は生々しい。 16日に菅生河原で一揆衆130人の首実検が行われた。一揆宗は禁制されたが、 一方では家康と一揆側と和解しているから、家康の処理のうまさが感じられる。
この三河一揆に勝利した家康は額田や松平・宝飯など三河一円に家康の力が及ぶ強 い基盤が岡崎周辺の地元で不動とした。

文明六年「1474」金森一揆は北陸で始まるが、宗祖、門徒らによる要求行動から、政治支配の反発、さらに社会要求に発展した経緯を見ることができる。
初段階は金森一揆のように宗教護教的から、後に見られる政治支配の反発、経済要求も含む要素を見抜けなければならない。「本宿1300年史から引用」した。

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