藤川宿
| 本宿村の東の宿場赤坂宿にみ触れたが、西の藤川宿はどのようであったか お江戸日本橋から数え36番目の宿場赤坂宿は、隣の御油宿場に近く、姫街道と東海道の合流地の宿のために、賑やかで街道の繁華街の様相で繁盛していた。 が、37番目の藤川宿は思いの外静かな佇まいを呈していた宿場であった。 旅人のなかには、酒と御馳走と女郎と一夜を過す、旅の疲れをいやす楽しみの宿場で藤川宿とは異なっていた。赤坂宿の次は岡崎宿に泊まる客が多く、ややもすると、藤川宿は素通りの旅人が目立つ変わりに、伝馬駅として馬役の処で江戸向かいは午前中、京向かいは午後に馬役が集中し混雑をしていた様である。 藤川宿は慶長6年、「1601年」徳川家康の東海道宿駅転馬朱印状がが出され東海道の37番目の宿場として成立したが、馬役100頭の負担和賄いきれずに宿は困窮し代官は藤川宿を補強すべく天保2年1645年に東隣の市場村を藤川宿に加宿を命じ、3年後に68戸が山中郷から藤川宿として勤めることになった しかし、赤坂宿や岡崎宿とは運命的条件を自然に宿った宿であったようである東海道で由比宿・石薬寺宿・二川宿に次ぐ苦しい環境に置かれた宿場であった。 歴史的に見れば、藤川村は西暦1500年頃は山綱川の北側に集落があり、天正18年ごろ、「藤川村は川北側から引っ越し事」岡崎市史。 1590年ごろ「藤川村山根に在りしが、川南に移りし候」愛知県史による。 |
東海道沿いの村々の様子と沿道で生活する村人たちの暮らしについて
東海道沿いには村々を結んで松並木がえんえんと伸び、付近は木岐が茂りなかにに点々として家々がある程度で、崩れ掛けた茅葺きの百姓の家があり、全体に沈んだ灰色に沈んで月夜でもお月様は頭の上にだけ照らし、寂しいというより夕闇迫る頃は不気味な感じを辺りに漂わせていた。数件の家々が肩を並べてひっそりとしと田荒れ地が広がる風景であった。そのころ、東海道には雲助といわれる男、浪人、渡世人など往来しどの家も日暮れ時より早く家の戸締まりをして家族がひっそりと暮らす以外になかつた。日暮れて動くものは夜這いの猫か、音といえば犬の遠ほえぐらいで夜歩きするものはいない。
この時代の農家は、主に5穀「米・麦・豆、粟、きび」など作り、そのほかに野菜麻を作りっており、田畑のほか山仕事、婦女子は機織りなどして暮す毎日である。
東海道の沿道の村々では、たびたびの参勤交代「俗名」大名行列に振り回され、まともな農作業も出来ず子どもが手伝う役割は大きく、朝星夜星を見ての農作業で家族ぐるみの作業をしなければならなかった。村々の行政を司る庄屋のなかには人々
には温情をかける名庄屋もいれば、多くは幕府の命令を農民に伝えて租税年貢を課し、
思い負担を背負いながら妻子を支えてゆくには並大抵でなく、文献や物語で知ること
が出来る。組頭は庄屋の仕事を手伝い計算の強い人がなり、百姓代はいろいろの指示
を百姓に伝え、年貢など検視役である。無論百姓は意見など言うことは許されず、強い制裁を受けることになる。大名行列には村々から助郷と言われる「手伝い夫」を強要された。その村の石高「米の生産量」で東海道の沿道の村々に、「助郷」の人や馬か゛かり出される仕組みになっていた。大名行列が通る東海道の橋、道路の整備、掃除まで課せられ、細かい指示と共に働かなければならぬ、大変時代であった