「3話」川崎」 川崎宿の入り口の六郷川「多摩川」渡し場は賑やかなで川崎大師の門前町。 この六郷渡しは川崎本陣の主人が大きく関わり、六郷の渡しは繁栄し収益を上げた。 本陣当主、田中丘隅は今までの橋が大水で流失して、再度橋を架けるについて反対
した。川を挟んで宿場を造れば、旅人が泊まり川崎宿は泊り客が増え宿が繁栄する。
船渡しに変えて船賃を宿場の収入にしたのである。田中丘隅の言うとおり宿場の運
営は見事好転・上向きになった。丘隅の「目先の利く」営業感覚は見事であった。
将軍吉宗に丘隅は認められて幕政に参加し、手腕を発揮したと伝えあるべし。

「4話」 麦の穂を 頼りに掴む 別れかな ・元禄7年「1674」俳聖芭蕉は愛する 弟子との別れを、この川崎で歌に残した。 本当に次の年亡くなってしまった。

「5話」 江戸湾に面し風光明媚な神奈川宿を東海道五十三次宿場絵で有名な歌川広重は
白帆の舟で港町を表したが、案の定・安政5年「1858」ここ神奈川宿で外国船 入港し外国領事館が建ち並び、5ヵ国通商条約が締結された。やがては「日本開港」 に発展し、大商業港「横浜港」が誕生し海国日本国は大いに繁栄する礎となった。

「6話」 ここ神奈川宿の東海道で痛ましい「生麦事件」が発生した。
文久2年「1862」8月21日武蔵の国生麦村でイギリス人殺害事件が発生した。 この生麦事件で薩英戦争に発展した。島津久光は改革を実施すべしと、江戸幕府に上申 したのちに彼の帰りの東海道生麦村に差し掛かったとき、行き違った乗馬のイギリス人4人に下馬を要求したが聞き入れられず、藩士は4人が斬りかかり貿易商人1人を殺害、2人を負傷させた。幕府は薩摩藩に下手人を引き渡しを命じたが、薩摩藩は拒否。イギリスは艦艇を背景に交渉し、遂に下手人を処刑を確約、賠償金の支払いで解決した。

「7話」保土ヶ谷宿の権太坂 急坂で長く1500b坂は旅人にはつらい坂道である。
江戸時代の権太坂は息を切らし、生き倒れの坂で有名、その名の起源は次の如く。
その昔、旅人が老人に「この急坂の名前は何というか」と尋ねたところ、 老人は
己の名前を聞いたと勘違い「権太」と返事した。いつしか「権太坂」となつた。

「7話」戸塚宿の広重の絵は「吉田大橋の手前に」「左かまくら道」とある。その角に
大きく「こめや」の看板が懸って商売をしていたが当家の主人は今も大事な家宝を 大切に当時の「こめや」の看板を大切に保管しているという。

「8話」、戸塚の名の起源。昔悪賊が村人を苦しめ夫婦者を殺した。武士は悪賊十人を平 いらげて平和な村を呼び戻した。以来此の村を十塚「と」塚、戸塚になったという。

「9話」 藤沢宿藤沢村に馬入川「相模川」かあり、源の頼朝の「不慮の死」の地である。 ここの橋の落成式に参列した頼朝は帰り道、義経の亡霊が頼朝の馬に乗り移り暴れ、 入水し、頼朝は落馬怪我をし、翌年に死亡した。「付近に義経首洗い井戸がある。」

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