東海道と53次宿場の話題・情報・解説、など「インターネット・ミニ情報」

今まで、インターネット情報で三河法蔵寺村「現岡崎市本宿町」を私たち郷土の千三百年史を御覧頂き、さらには徳川家康が江戸幕府で、最初の政策が道路整備で東海道宿駅制度により、東海道五十三次宿場や一里塚、松並木、大名行列で京都・江戸間は大いに栄えた。それにより諸道も発達し、初期は「東海の」うみ道」として鎌倉街道が旧東海道に、さらに東海道から国道1号線、となり、大関東経済圏と中京経済圏や大京阪神経済圏など東西の日本を結ぶ「一大道路網」を形成し政治経済文化情報など巨大な日本の活路の原動力として、昼夜を問わず国勢進展と生活充実の両面に限りない要路と言える。 家康が400年前「慶長6年」「西暦1601年」江戸と京都間の旧東海道に宿駅置き、東海道五十三次宿場制度を行ってから、平成13年「2001年」が、節目の「400年の記念」年にあたり、行事やイベントが各地で盛大に催され、今日の巨大な東海の道の発展を祝した。

その記念すべき東海道宿場制度400年「記念刊行本」として、我が身の非力を顧みず第1巻・三河本宿郷土史誌「ふるさと本宿千三百年史」刊行した。さらに翌年「2001」に前記の東海道宿制400年「記念誌」として、・・・東海道と宿場の魅力・・・を編集発行した。もとより、この本は数年来の原稿取材「京」・「江戸」の東海道を「駆けずり廻っり、往来の見聞録」。全編六編・430ページ・大型紙面で挿し絵も多く内容充実である。 願わくば、この史誌が「些かなりと」、東海道と五十三次宿場の発達過程と「東海道」や「国道1号線に親しみ」さらに、「人と道」「道の恩恵」を考える一助となれば「至高の至り」であります。今回「本の内容」のインターネット開設は「未記述部分の要点」です。詳細は「東海道と五十三次宿場の魅力」と「本宿ふるさと1300年史」をお読み頂きます様、ご案内致します。最後に東海道江戸日本橋から京都三条大橋まで約30話を「ミニ情報」として、インターネット乗せました。東海道と五十三次宿場の知識の充実と「21世紀に東海道と53次の各宿場がさらなる飛躍をなされることを祈願します。 「編集子」
東海道と53次宿場の話題・情報・解説、など「インターネット・ミニ情報」。


「1話」、 大江戸日本橋・大江戸東京博物館にこの橋の原形が堂々とある。東海道伝馬制の2年後慶長八年「1603」に江戸城からの堀に架けられたのが、この橋である。、「大名行列や橋上橋下の魚行商慌ただしく行くさまが克明に絵が描れた広重絵である。」
大名行列隊揃えて七つ立ち。「あれわいさのさ、こちゃ高輪の夜明けで提灯消す、こりゃさ」 威勢よい、朝七つどきの掛け声である。丁度高輪当たりだ明るさが戻り、提灯消す。 現在の石橋は明治四四年「1911」妻木頼黄と言う明治の日本を代表する建築家が設計・石橋2蓮アーチ式河川道路橋で長さ46/8b、巾27b当時目を見張る 河川道路橋であった。修復は平成10年この時青銅造りの装飾照明灯になり、平成11年、国指定の重要文化財に指定され、日本初の洋式で、橋の中央に日本国道路元標と橋の四隅には、魚河岸跡・晒し場跡・高礼場や由来板がある。東海道は国の重要文化財から出発となる。

「2話」 江戸時代中期以後、各宿場に「飯盛り女」制度が許され、賑やかであったが、品川宿の飯盛り女は「自覚と誇り」を持ち、別格で吉原郭に対抗していた。言葉も「ありんす」言葉を使い、名前も「お蝶」「お君」「お花」など花魁風を持った「飯盛女」で、
ここは、江戸に入る手前で、大名行列は隊列を整え、旅客は最後の憩いの宿でもあった。

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