競争主義とシロアリの生きかた
昆虫は新芽や若葉あるいは蜜など植物の栄養が集中する部分を利用するために様々な進化をしてきた。そして昆虫と植物、あるいは昆虫の間では栄養の獲得をめぐる不断の争いによって一定の関係を形作っている。
しかしシロアリは、こうした争いごとに加わらず、他の昆虫が利用しない植物の老化した繊維部分を利用することで進化し繁栄してきた。
シロアリの兄弟分である現存するゴキブリたちも、たとえ一部が人間の家屋に住むとはいえ、ハエやカのように白昼堂々人間の食べ物や血液を横取りするようなことはない。人間の目に付かないように行動し、万が一見つかったらすばやく逃げる。
もともとゴキブリもシロアリも争いごとに適さない生き物のようだ。自然界のヤマトシロアリなどは、ハウスメーカーのCMではないが、人間に対しても「つかず離れずの思いやり」で暮らしているうなものだ。

人間の世界では勝ち組になろうと必死に戦い続ける人がいるが、ごくわずかな人を除けば、勝ち組になることと幸せになることとはまったくつながっていないの が現実。圧倒的多数の人々にとって、勝ち組になってもバラ色の世界は保証されていないのだ。勝ち組になればなったでさらに厳しい世界が待っている。
実際、勝ち組といわれるような大企業や勢いのあるメーカーの内部では、むしろ負け組み以上のひどい生活や扱いが横行しているのである。
ひところ急成長し今は見る影もないP社では、当時従業員が大変な環境で働かされていたことが新聞で報道された。また世界に冠たる車メーカーのT社でも、販 売店の各系列同士を競争させ、営業マンは深夜12時過ぎの帰宅が日常化している。急成長しているハウスメーカーは、例外なく社員に過酷なノルマと競争を押 し付けている。その他IT企業しかり、銀行しかりである。
このように多くの場合、自分の属する会社や団体が、さらに大きな峰を目指して発展し続けたとしても、それが必ずしも自分たちの生活向上にはつながらず、さらに過酷な競争とふるい落としを意味するのである。
しかも、一旦そうした競争の道に入ってしまうと、自分たち(会社の上層も含めて)の意思とはかかわりなくブレーキの効かない状態に陥ってしまう。競争が競争を呼び、無理が無理を呼んでしまう。
社会のルールが緩和される中で、まともな雇用はますます減少し、口入れ屋がはばをきかせ、ワーキングプアの状態が個人でも会社でも日常化する。
とくに日本では富(金)のかなりの部分が健全な生産的産業的な部門にまわらずに、生産とはまったく関係のない利札切りや高利貸しなどにまわりやすい仕組みだからなおさらである。だからといってみんながホリエモンにはなれるわけでもない。

話は変わるが、アンデルセンで有名な北欧のデンマークという国は「オリンピックで金メダルを取らないことを誇りとする」とさえいわれる独自な伝統的スポー ツ観をもっている。もともとスポーツは他と競い合うことよりも心の解放のための行為であって、まさに「参加することに意義がある」オリンピックだから当然 といえば当然である。
「より速く、より高く、より強く」が前面に出るようになったのは近代スポーツが形成されてからである。とくに近代工業の発展と国同士の戦争や熾烈な競争のなかで、本来のスポーツのあり方が競争中心になったようだ。
体を鍛えると精神も健全になるかのような錯覚にとらわれて、わが子がスポーツに熱中していれば安心してしまう単純な親が目立つが、新聞の社会面を見ればスポーツ選手であろうとなかろうと心を病むときは同じであることがわかる。
その昔ユベナリウスが「健全な身体の者にこそ健全な精神が宿るのが望ましい」といったのが、いつのまにか「健全な精神は健全な身体に宿る」となった。それなら体に障害がある人には健全な精神は宿らないのかと言いたくなる。
そして競争主義スポーツ「隆盛」の影で、心の解放と正反対の「体育会系」的上下関係やしごき、軍隊式精神論がはびこった。
日本の小学校では運動会の競走の順位を廃止することに一部の親が反発するが、これも競争主義の根深さを物語っている。ましてや学業の順位の廃止は夢にも日程に上らないのが現実である。

デンマークの競争主義を排したスポーツ観につながるものとして、有名なフォルケホイスコーレがある。英語流に読めばフォーク・ハイスクールか。国民高等学校と訳されたこともあるが、ニュアンスは異なるようだ。
150年も前から始まったこの自由な全寮制の民間の学校は、今ではデンマークで100校、北欧全体では400校におよぶ。18歳以上であれば誰でも無試験 で入学でき、卒業しても資格はないが履歴書では学校として通用し、カリキュラムも自由で国家の干渉も受けない。学びたい人が学びたいから入学するというあ たりまえのこと。まさに競争のない学びである。
こうした考え方は北欧だけでなく世界各国に影響を与え、わが国でも戦前から内村鑑三などの推進者がいたし、その流れを引き継いで今日のわが国にはまだ少数だがいくつかのフォルケホイスコーレがある。
本当に学問をする場合、他人と比べることはまったく無意味に近い。だから日本の歴史をさかのぼっても、つい江戸末期までは学業に順位などがなかった。高杉晋作や久坂玄瑞など優れた人材を生み出した吉田松蔭の松下村塾などフォルケホイスコーレといってもおかしくない。
いっそ日本の公教育も受験態勢と業務を一掃すればかなり変わるはずだ。学校同士を競わせる部活もすべて民間委託すれば、戦時広報のような学校新聞を作る必要もなくなる。だいたい人間若い頃に大成するとろくなことはない。
ところが今日の日本では、受験競争やスポーツ大会の勝利と幸せとはまったくつながっていないにもかかわらず、そのことを親がわかっていない。そして「どんな人間に育てるのか」がないがしろにされている。
学校と比べて塾に教育能力があるのではない。塾の教師たちが余計なことをしなくてもよい環境にあるというだけである。横並びの行事や町内の顔役との付き合いまで競ってやるバカな塾など一つもないのだ。
私の住む岡崎市の隣の安城市は早くから「日本のデンマーク」と呼ばれ、「デンパーク」という巨大なテーマパークもあるが、周囲と同様に充分競争社会であり、フォルケホイスコーレについてはちっとも話題に出ない。

ところで、私もシロアリ業者として独立開業した当初は「いつかは大きな企業に」という思いもあったが、今では「大きくしなくてよかった」とつくづく思っている。競争から自由であることは何でもできるという面が大きい。会社の利害のために意図しないことをいう必要もない。
赤字にならない程度の調査料金さえもらえれば、「お宅の家ではなにもする必要がないから、床下にお金をかけるべきでない」と平気で言える。はるか関東や北陸方面に泊り込みで出張調査して「何もする必要がない」とお茶をいただいて帰ってくるだけのこともしばしばである。
売上は少ないが、仕入れも極端に少ない。豊かとはいえないがとりあえず生きていける。苦しいときは我慢すればすむ。高額なWindowsのPCは買えない が、中古ショップで探した8千円の中古PCでは、最新のWindowsに匹敵するようなLinuxOSが1円の資金もかけずにスイスイ動いている。競争に 使う労力を別の方面に使えば生活はそれなりに豊かになる。
そういえばLinuxの開発者リーナス・トーバルズも北欧はフィンランド出身(スエーデン系)である。
彼は、自分たちの権利を「伽藍」に囲い込んでガツガツ儲けに走った米マイクロソフトのビル・ゲイツと対照的に、自分の趣味的な世界から生み出したOSの基 幹部分に自由な配布と変更を認め「バザール」に公開した。その結果多くの個人的開発者のネットワークが国境を越えて生まれ、Windowsとほとんど同じ 操作で同じことのできる多様な配布形態や優れたソフトウエアが成長し、今では落ち目のWindows伽藍を包囲する勢いである。Windowsはマスコミ と販売店の点と線に依存してVistaを出したがWin95発売時のような勢いはない。

私の周囲には「なにか奇抜なものをつけないと家が売れず競争に勝てない」と嘆く方も見えるが、普通の家を売って生きられるように会社を体質改善する方がい いのではないか。モノは誰でも真似できる。ハウスメーカーの後追いや建材メーカーの尻馬に乗る路線と根本的に決別すれば、もっと自分らしいいいものが生ま れるかも知れない。また無駄な企業競争をなくすだけでもかなりの省エネになると思われるがどうだろう。

シロアリのように自分のありようを無理のない形で自然に一致させ、それなりの居場所を確保できるかどうか、これが本当の意味での「勝ち組」ではなかろうか。
2007/2