星野伊三雄さんの思い出



技術への謙虚さ

人生への頑固さ

 今から約40年ほど前、私がシロアリ業界に入った時、星野伊三雄(いさお)さんはすでに私のいた会社から独立し、(株)東海白蟻研究所を設立していました。
 「永久保証」とか「30年保証」と言われた有機塩素系のディルドリンが使用できなくなり、同系のクロルデンが主流薬剤になった時代です。
 できて間がない同社を大きくしていったのは、シロアリに対する知識と進取の精神でした。
 星野さんは温度や湿度のデータを緻密に蓄積し、シロアリ羽化のピークを読んできました。そして羽アリの群飛に合わせて新聞折込のチラシをタイミングよく入れることに精通していたのです。
 また現状に安住せず、常に新しい薬剤や道具、技法を他社に先駆けて導入してきましたが、自らのシロアリ駆除の経験から、新しい技術や薬剤の効能を決してうのみにすることなく、批判的に受け入れていました。時には薬剤に勝手に混ぜ物を入れてメーカーから叱られたこともありました。

 私も遅ればせながら1990年に独立したのですが、薬剤の仕入先について星野さんのところに相談に行ったのが本格的な付き合いのはじまりでした。
 そのとき見せてもらった薬剤処理に使うノズルの先端にリング状の溝を発見し、その理由を聞いたところ、コンクリートドリルで木材に穴を開けてノズルを差し込むと抜けにくいからだと言いました。
 「えっ、コンクリートドリルで木材に穴を?」と聞き返すやいなや返ってきた答えは「木材用ドリルでコンクリートに穴を開ける奴はバカだけどが、コンクリートドリルで木材に穴を開けてなにが悪いだ」だった。
 これには自分の固定概念は木っ端微塵に打ち砕かれ、これが口火となって「木部には木部処理剤」とか「規定の濃度」とか「仕様書」といった類の「常識」も次々に消えて行きました。

 私の独立は1月でしたが、その年の12月星野さんから「千葉に行くが、ついて来るか」と聞かれました。独立したての私としてはそれほど仕事があるわけではないのにもかかわらず、数日家を空けるのが怖くて断ってしまいました。
 星野さんの千葉出張はイエシロアリの駆除で、千葉県初のイエシロアリの巣が掘り出されたと地元の新聞に大きく載るほどの成果を上げました。
 星野さんは帰ってきてから私に駆除の様子を伝えながら「お前なあ、声がかかったら何でも参加したほうがいいぞ。チャンスを自分で潰すようなことはせんほうがいい」と諭すように言いました。そして人とのつながりのを増やし、採取したシロアリのサンプルを増やす意味で「名刺は宝、サンプルは財産」とも言いました。
 それから私は何でも参加するようになりました。

 翌年、星野さんは高野山でのシロアリ慰霊祭のついでに和歌山県古座川町のアメリカカンザイシロアリの現場に行くというので、私もついて行きました。その際、吉野利夫さんなど著名な技術者を紹介され、古座川ではアメリカカンザイシロアリのサンプルを採取できました。
 さらに翌年には、再び古座川の乾材シロアリ調査に星野さんとともに参加したことがきっかけで、山根坦さん、柿原八士さんなどとも交流できるようになりました。
 そしてこうした動きの中から星野さんを会長に、吉野さんを顧問として、1992年しろあり同好会が結成されました。ここには「利口に金を儲ける風潮に逆らって、シロアリバカに徹しよう」という共通意識がありました。

 星野さんにとっては山根さんとの出会いは大きなものがあります。
 「普通は人の性格ではプラスとマイナスの方が相性がいいのに、俺と山根はプラスとプラスで相性がいい」と星野さんは得意げに言っていました。
 だから山根さんとは同好会以外でも頻繁に連絡をとるようになり、私も含めて3人で情報を交換するようになりました。いきなり電話がかかってきて「こんなことが雑誌に書いてあった」とか、「今からオモシロい新聞の切り抜きをFAXするぞ」という電話、あるいは「今テレビでシロアリが出ているから見てみろ」などというのが夜中にかかってきたりするのでした。

 しかし2004年に山根さんが亡くなったことでこうした関係もなくなりました。そのころから星野さんは露骨な「教え魔」になっていきました。折しも和歌山の畳屋さん、すなわち尾屋勝男さんがシロアリ駆除を勉強したいというので何度も現場で教え、初めての「シロアリ塾」を開いた際に仙台から応募してきた早坂弘さんらにかなり長い「昔話」を披露しました。また、西に「1リットルの薬剤でシロアリを駆除する」という若者がいれば声をかけ、東に「基礎断熱被害のいい写真を公開している」業者がいれば電話をする、基礎断熱で困っている建築士がいれば会って話をする、業界団体の勉強会では業界の悪口ばかりをいう、というような行動が目立つようになりました。
 おそらく星野さんは自分の体の変調を意識して、若い人達になんとしてもシロアリ駆除の本道を伝えたい願望に駆られたのだと思います。
 こうして皆が集まれる場として私と二人でシロアリフォーラムを呼びかけたのでした。それはかつてのしろあり同好会のように派閥ができたり、打算で入会するのを避けるため、会則もなにもなく、まるで魚の群れのように自然に寄り添って集まるネットワークとしての「会」でした。

 星野さんは自分の技術を絶対視したり、隠したりしませんでした。これはと思った人にはどんどん教えて行きました。「見込みのある奴なら、必ず何かを返してくる」というのが信条でした。そして実際、星野さんが教えた人からいろいろな情報や写真などが返されました。道具一つとっても、人に紹介するとその人なりに改良されたものが返ってきます。そして自分では思いもつかなかった発想を得るのです。

 病に倒れ、病床で眼を閉じている星野さんは、見舞い時に呼びかけてもほとんど無反応でしたが、シロアリの話や現場の状況を話すと、見る見るうちに目が開き口を動かし話に参加しようというような動きをしました。やはり最後まで星野さんは「シロアリバカ」でした。
 そして2011年8月24日、星野さんは逝去されました。71歳。星野さんから直接指導を受け、数多くの駆除現場を共にしてきた私たちには極めて大きな痛手であり悲しみです。
 

星野さんの口癖

・イエシロアリが本隊なら、ヤマトはゲリラ。
・ヤマトシロアリは必ず水を運ぶ。
・シロアリは飼ってみるのが一番。
(星野さんは寝床にも飼育箱を置いていた)
・床下は必ずすべてもぐれるようにすべきだ。
(動力噴霧器の)ポンプ圧が高い業者はダメ。
・既存の道具を使う業者もダメ。
・写真を見れば(駆除技術の)程度がわかる。

不思議なこと

 山根さんが亡くなったとき、最後の面会者が私と星野さん。そして星野さんの最後の面会者も私でした。
 私と星野さんは共に一回り年齢が離れた辰年で、星野さんの命日は偶然にも私の誕生日です。
 一般的な葬儀では浄土宗や浄土真宗といった念仏仏教がよくみられるのですが、山根さんの葬儀は天台宗で、星野さんは真言宗。最澄と空海です。ふたりとも山岳仏教の二大宗派というのも偶然とはいえ不思議です。
 もちろん、だからといって何かの因果を信じるわけではありません。ただ不思議だというだけです。

台湾の李さんに道具の工夫を説明する星野さん


カンザイシロアリの調査(和歌山・古座川・1992)


佐久島で薬剤のテスト地を探す


通行人にもシロアリの話をする(吉良の海岸)


作業中もついタバコを咥えてしまう


全国から集まった研究者に説明をする(岡崎)


よく私の仕事も手伝ってくれた(足助城での駆除)


故山根さんの仕事も応援(三重・金剛証寺の燻蒸)


森林系のシロアリ調査(和歌山・朝貴神社)


同好会でのシロアリ調査(高知・足摺岬)


同好会でのシロアリ調査(沖縄・西表島)


海南島でのシロアリ調査(中国)


台湾での研修会(台北)


出張時の宿ではだいたいこんな姿(広島)