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豊田市鴛鴨町三味線塚懐古
玉音哀歌 歌:もてぎ 敏男
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作詞:兵頭憲司  補作詞:もてぎ敏男  作曲:もてぎ敏男 歌:もてぎ敏男

豊田市鴛鴨町三味線塚懐古

「玉音哀歌」によせて  兵頭憲司

 今から五百年程前、京の都、能楽宗家、古流観世家に一人の娘があった。
 幼い時から能や弦楽を習い、十才の時、父と共に朝廷に召され上奏したという
天才少女であった。故あって京都を去り二十五才の時、鴛鴨城主 松平親康の
家臣と結ばれ、女児をもうけ「玉音」と名づけた。

 玉音は親ゆずりの才能があり三絃の習得に励んだ。 しかし玉音が五才の時
母はこの世を去り、その後父も三河一向一揆の激戦で戦死した。
 五才にして母を失い、七才にして父を失い、孤独の身となった玉音は城郭に
近い草庵にあずけられ、親ゆずりの三絃を心の慰めとして両親の追善につとめ
家名を受け継ぐべく芸道の修行に十二年の歳月が流れた。

 天正三年、武田勝頼は長篠城を攻めんとして織田、徳川の軍密を探るため信
濃路から三河に入り、岡崎に向かう途中、隣松寺付近に野営した。
 折りしも十三夜の月はおぼろに中天にかかり村積の連山は眠ったような静け
さの中、深更の夜空を伝って嫋々たる箏曲の音が聞こえてきた。
 その切々たる哀調は若き大将勝頼の旅情を誘うに十分であり、やがて従者に
命じて箏曲の主を尋ねさせると、野営地から程遠からぬ丘陵に古刹の草庵があ
り、一心に箏曲を演じる可憐な少女がいて、玉音と答えた。
 野営の屯所に召され、野営の一夜を過ごし、箏曲の主の語る身の上哀話に、
思慕の情を禁じ得ない勝頼は、後日の再会を約して、足助街道を北へと消えて
行った。

 二ヵ月後、長篠の戦いに敗れ武田軍は潰走した。その途中、かねて見覚えの
ある草庵に立ち寄り玉音と再会したが、敗軍の将として長居はできず、別れの
一曲に将来の逢う瀬を約して武節(稲武)の城へ帰って行った。
 天正十年、勝頼は天目山の戦いに敗れ最後を遂げた。

 これを伝え聞いた玉音は仏門に入り、両親と心の夫、勝頼の菩提を弔ってい
たが病に倒れ、慶長二年、名器三絃を仏前に供え、若くして世を去った。
 玉音の死を哀れんだ村人は、その後遺物三絃を近くの塚へ葬った。
 その後、そこの六本の松を植えた。

 後世、誰ということなく「三味線塚」あるいは「六本松塚」と呼ぶようになり、この
塚を息を止めて三回まわると三味線の音が聞こえるといわれるようになった。
 
 (以上鴛鴨町誌より)


三味線塚の現状 2011年
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