ここから先は私の言いたい放題を書いていくので、お暇な方は見てください。
10月11日更新
邦楽らんどを作る気になった理由
私の住んでいる岡崎市や勤務先の豊田市でも外国人との交流が日常的に行われ
ています。外国からの留学生はその国特有の文化を紹介できる教養の一つや二つ
身に付けており披露してくれます。ところが日本の若者は伝統的な文化を外国人に
紹介出来る人は少なく、せいぜいカラオケで英語の歌をうたう程度です。私の勤める
会社は外国からのお客様も多く歓迎会で邦楽部の琴、三味線、尺八演奏が喜ばれ
ています。しかし、演奏しているのはオジサン、オバサンが殆どです。(失礼!お嬢様
も少しいました)
若者の邦楽ばなれは、今始まったわけではありません。私が高校生の頃もジャズ
やロック、ビートルズ、プレスリーに夢中になりました。その頃私が集めたレコードも
それらの洋楽が多く、しかし少なかったけれど、宮城道雄もありました。私は高校の
3年間クラッシックギターのクラブに在籍し、宮城道雄の「春の海」をギターで演奏し
た経験があります。でも本物の琴に触れたのはそれから25年も経ってからでした。
同じ会社に勤める友人宅で奥さんが弾かれるお琴を、ちょっとだけ素手で弾い
てみたら、日本人の魂を呼び覚ますような音階と音色で、私の腐りかけた脳細胞の
音楽情報を処理するディレクトリーを刺激して青春時代にまで回復しました。
私はナマのお琴の音色が忘れられず本物のお琴を買ってしまいました。和楽器の
お店でたくさんある中からどれを買ったらいいか音による鑑定力はありませんから、
木目模様が複雑で渦巻きがたくさんあるお琴を買いました。和室のインテリアとして
床の間に飾っておける、というのが選定のポイントでした。友人が来るたびに下手な
演奏で「シルクロードのテーマ」や「いい日旅立ち」をムリヤリ聴かせるので、友人達
はお琴がインテリアとしてすばらしいことだけを誉めてくれます。

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私の買ったお琴です。宮城道雄愛用の名器越天楽に似ていませんか。
他のお琴はこちら
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なにを今さら琴や尺八を・・・という私と同じ団塊の世代の人達がいます。その人達
は和楽器や和音階を子供の頃からラジオや歌謡曲で聴いて慣れ親しんできたはず
ですが、演奏は出来ません。これは学校教育に問題があったと思います。たまたま
私の学んだ学校だけかも知れませんが小学校から高校まで一度も和楽器を習った
ことがありません。クラブ活動でも吹奏楽部、ギター、マンドリン、コーラス部はありま
したが、お琴や尺八はありません。中学校の音楽の時間に宮城道雄の「春の海」を
レコードで聴きました。小学生の時はリコーダーというたて笛で「荒城の月」を全員が
習いましたがなぜ、和楽器の横笛(しの笛)でなかったのか、疑問に思います。
というわけで、学校教育を受けている間一度も和楽器に触りませんでした。せめて
ご近所に邦楽教室があって通学の途中でその前を通るとお琴や尺八の演奏が聞こ
えてくる環境にあったなら、私はきっと今頃は大師範・・・・そこまでいかなくても会社
の文化祭で演奏を披露できたかも知れません。
とにかく若いうちに邦楽教室や生演奏に合う機会が多ければ、入門し日本の伝統
音楽の演奏を学ぼうという若者も増えると思います。これが私が「邦楽らんど」を作ろ
うとした理由です。
作るための準備で苦労したこと
邦楽に関係したホームページをインターネットで検索しますと日本中にたくさんの
ホームページがありました。ほとんどが個人のホームページで自分の趣味で邦楽の
楽しみ方を紹介するものとか、特定の流派、演奏家個人のホームページでした。
残念ながら私の探していた流派を問わず邦楽教室や演奏会の紹介をするような
ホームページはありませんでした。海外にも邦楽のホームページはたくさんあります。
アメリカ、ドイツ、オーストラリアに尺八のホームページが多くあります。全てその国の
尺八奏者が自分の演奏活動や発売しているCDを宣伝するために作っているホー
ムページです。それはそれで邦楽発展のために貢献しているのですが、私の期待
するものではありません。
よし、それなら私が作ってやる!!・・と妻と娘の前で宣言しました。妻と娘はそん
なもの出来るはずがない、と相手にしてくれませんでした。インターネットを見るため
にパソコンを4ヶ月前に買ったばかりで、まだ上手く使えません。ホームページを見
るだけならマウスでチョンチョンとやればいいが、作るとなるとそうはいきません。
そこで平成8年12月31日〜平成9年1月5日まで勉強に集中しました。生まれて
今までにこれ程勉強したことはありません。正月というのに酒も一滴も呑まず家から
ほとんど出ず山ほど買い込んだ本(読んでも難しいのでレベルを段々落としていっ
たので本の数は増えたが内容は一冊あればよかった)を読みながらキーボードを
打っていました。ウインドウズ95というOSのおかげでオジサン達にもなんとかパソコ
ンが使えるようになりました。でも「初めてのウインドウズ95」という本が理解できなく
て「サルでもわかるウインドウズ95」でやっと理解できました。
正月連休中にホームページの雛形ができ、そこに掲載する内容を集め始めまし
たが、ほとんど何も資料がありません。あるのは昨年友人に誘われて行った時に
もらった「岡崎邦楽祭」と「豊田三曲会演奏会」のプログラムだけでした。とりあえず
これに載っている先生の教室を紹介するページを作ろうとしましたが先生方の許可
を得るのが先と思い、全員に手紙を出し電話もしてお願いをしました。
ところが、これが最初の障害物となりました。そもそも邦楽のお師匠さんは若い方
もいらっしゃいますが、高齢の方も多く芸事一筋でパソコンとは無縁の方にインター
ネットを手紙と電話だけで理解してもらおうというのが無理でした。手紙に同封した
資料の中にはインターネットの画面コピーや「ここをチョンとやるとパッとこちらの画
面に切り替わる」といった説明書がありましたがどこまで理解されたか疑問です。
電話で説明した時はこんな様子でした。
「手紙は見ましたけどインターネットというのはこうゆう手紙を送ってくるんですか。」
「いいえ、電話回線を使って文字や写真や音までも送ることが出来るテレビみたいな
ものです。」
「おたくはどこのテレビ局ですか。」
「テレビ局ではありません。個人で情報を集めて誰でも見られるように編集して公開
するミニコミ誌のようなもので、もし先生の演奏会の日程を教えて下されば掲載しま
すし、教室のことも紹介します。」
「うちは結構です。」
「そうおっしゃらずにお願いします。」
「他の教室も載っているんですか。」
「いえ、まだこれからお願いするところです。」
「お金はいくら出すんですか。」
「いえ、お金は一切要りません。」
「なんでタダなんですか。」
「私が好きでやってるからです。」
「やっぱりお断りします。」
「まあそうおっしゃらずに・・・
という具合に電話で勧誘する悪徳商法と間違われたことも何度かありました。でも
私のしつこい説得で皆さんにご理解をいただき掲載させていただきました。
「邦楽らんど」という名前について
「邦楽らんど」・・・なんとダサイ名前だろうと自分でも最初から思っていました。
ホームページを作り始めた時に思いつきで「邦楽ランド」と仮名を付けましたが
初公開までにもっと素晴らしい名前にしようと色々候補を手帳に書き込んでいた
のですが、どれも満足出来ませんでした。英語を使うと邦楽には馴染まないし日
本語だけでも応用範囲が狭くなる。名前を見ただけで内容がある程度推測出来
るネーミングを考えました。
邦楽の世界・・・・スケールが大き過ぎて名前負けする。
趣味の邦楽・・・・NHK教育番組みたいで堅苦しい。
邦楽倶楽部・・・・どこかの邦楽クラブが運営していると誤解される。
お父さん邦楽ですよ・・・・テレビCMのパクリです。
琴、三味線、尺八、民謡等、邦楽教室の紹介と邦楽演奏会の案内と邦楽
関連情報のホームページ・・・・内容は分かるが長すぎる。
西三河邦楽情報・・・・地域名を使うと将来地域を広げることが出来ない。
邦楽情報・・・・最近見かけなくなったが以前有りました。
邦楽ジャーナル・・・・今も有ります。
ホームページがほぼ出来上がった頃、名前が決まらずに困っていました。そこで
仮名だった「邦楽ランド」を候補に上げて検討しました。この名を思いついた過程
は
ランドという英語は「ディズニー
ランド」や「○○健康
ランド」のように誰でも入れ
るというイメージを日本人なら年齢を問わず持っているからです。皆さんからの投書
や情報提供で成り立っていくホームページで流派を問わず受け入れていく立場で
すからピッタリの名前だと思いました。ただし、私はカタカナ語がきらいで「ランド」を
「らんど」とひらがなにしました。
「邦楽らんど」・・・どうです? やっぱりダサイでしょ。
宮城道雄について
「邦楽らんど」を開設して6ヶ月が過ぎたある日、インターネット検索エンジンの
「goo」で宮城道雄というキーワードでホームページを散策していたら、衝撃的な文字
が目に入りました。それは歴史上の有名人の最期の様子を特集した
ページでした。
そこには”
走る汽車から落ちて死んだのは琴の名手、宮城道雄。その最期の言葉
が痛々しい。虫 の息で「ミヤギミチオ、ミヤはお宮の宮、ギはお城のギ、ミチは道路
の道、オは雄です」” と書かれていました。宮城道雄は中学校の教科書に随筆が
載っていたりテレビ番組の「知ってるつもり」で1時間にわたり伝記が紹介されたりし
て愛知県刈谷市で列車から転落して亡くなったことは私に限らず多くの方が知って
いますが、列車から転落すれば即死に違いないという先入観からか、「最期の言葉」
があったことを急には信じられませんでした。真実がどうであったのか確かめる方法
を考えました。会員でもないのに宮城会本部に問い合わせるのは失礼なので会社の
邦楽同好会の方に聞いたら、刈谷市の事故現場付近の記念碑で宮城道雄の命日
に毎年「浜木綿忌」が営まれるからそこで聞けば分かるだろうと言われました。しかし
その時はもう7月で命日は6月25日、残念でした。しかしあきらめませんでした。
知り合いの紹介で高瀬忠三さんを訪問出来ることになりました。高瀬さんは宮城道
雄が亡くなった直後から現場付近に供養塔を建てるまでの事情を詳しくご存じの方
で奥様が宮城道雄の直弟子で娘さんも宮城会の大師範という御一家です。
宮城道雄といえば流派を問わず、邦楽、洋楽を問わず、日本を代表する芸術家で
あることは誰もが認めるところです。私にとっても高校生のころからレコードを聴き、随
筆も読んで尊敬していた宮城道雄について、直接関わっておられた方から話を伺え
るので胸をわくわくさせて訪問しました。
高瀬忠三さんは永く教職におられた方らしい話し方で宮城道雄との出会いから悲
しい最期のお世話をした事までをお話くださいました。奥様の悦子さんは昭和8年に
宮城道雄の直弟子となり、宮城先生が作曲をする傍らですぐに譜面に書き取る仕事
をしながら直接ご指導を受けられた方です。このお二人から宮城道雄に関するお話
をうかがった時、一冊の本を見せていただきました。本といっても原稿用紙とご自分
で撮影された写真が綴じてあるものですが、
「悲しき記録」と表紙に毛筆で記されて
いました。これは宮城道雄が列車から転落して亡くなった後、関係者の中で最初に
病院に駆けつけ、遺体のお世話までされたお二人が事故後の新聞等の報道に事実
と違う内容がいくつもあったので、悲しみの中で真実を記録しようと関係者の証言を
元に、自らカメラで撮影した写真を添えてご遺族や宮城道雄の関係者に真実を伝え
るべく「悲しき記録」を書かれました。これは昭和31年の宮城会会報にも掲載されま
した。この会報も見せて頂きましたが、紙がかなり変色していました。
私が最初に確かめようと思った疑問、
「ミヤギミチオ、ミヤはお宮の宮、ギはお城の
・・・というのはやはり本当でした。 「悲しき記録」は読んでみると宮城道雄の人柄と
偉大な芸術家であった事がよく分かりました。私はこの「悲しき記録」をホームページ
で紹介したいので原本と記録写真のアルバムをお借りして家まで持ってきました。
家に帰ってから気が付いたのですが、高瀬家門外不出の「悲しき記録」の原本が
私の机の上にあるのが不思議でした。私の図々しさと大胆さで今までに多くの人に
迷惑をかけてきました。この原本のわずかでも傷付くことがあっては大変なことになる
と思い、写真のページをスキャナーに乗せるときは妻と二人で息を合わせ、そっと
持ち上げました。私は大の汗かきなので7月のエアコンの無い部屋でしたので汗止
めのハチマキをしてなんとか無事に全部の写真をコピーできました。原本は我が家
で一泊し、翌日無事に高瀬家に戻りました。
あーよかった。(^_^;)
そんなわけで「悲しき記録」を掲載したところ日本中の方から感想のメールが来る
ようになりました。反響の大きさに驚いています。
初対面の私に家宝とも言うべき大切な原本をお貸し下さった高瀬忠三さんのご厚
意には感謝します。
この続きはまたね。・・・
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