山根坦さんの思い出

神谷忠弘



シロアリ技術者としての歩み

山根坦(ひろし)さんは1943年(昭和18年)に生まれ、シロアリ技術者として22歳で山根白蟻研究所を開設した。
彼は九州の技術者清水一雄さん(宮崎)や故・児玉勝さん(宮崎)との親交の中でシロアリ駆除技術や見識を高め、さらに故・森八郎博士(慶応大学)のもとで 家屋の燻蒸処理技術を取得した。そして主に文化財のシロアリ対策を担うことになった。なかでも、桂離宮改修の際の燻蒸は山根さんにとって生涯の誇りとなっ た。
また、森、清水、児玉の各氏とともにわが国初のシロアリの北限調査やクシモトシロアリの採取などを行ったことも確かな足跡として残されている。
こうして、山根さんは全国をまたにかけて文化財のシロアリ対策や燻蒸を行い、あるいは各地のシロアリを採取してわが国のシロアリの分類にも貢献した。
とくに、シロアリの形態上、生態上の特徴などについて研究者に意見を述べることもたびたびあった。
また、研究者との交流がとりわけ広く、西表島のシロアリ調査、各地のアメリカカンザイシロアリの駆除、サモアのダイコクシロアリの駆除などで研究者とともに活動した。
1992年に結成された”しろあり同好会”にも当初から参加し、中心的なメンバーとして私たちとともに活動した。
さらに同年から始まった吉野利夫さん(福岡)を中心とした技術者集団による小笠原・父島のシロアリ対策には、柿原八士さん(長崎)らとともに参加し、この中でダイコクシロアリの駆除法と予防法についての一定の定式化を行った。

山根さんと私の出会い

私が山根さんに出会ったのは、1992年和歌山で開かれたシロアリ研修会だった。星野さんから「岡山に変わった業者がいる」と聞かされていたが、シロアリの話をするのにいきなり学名で話をするのには面食らった。
こうして私たちは連絡を取り合っては一緒にシロアリ採取をするようになった。採取の場合、宿に戻ってシロアリの大顎を分解しては解説するのがいつも山根さんの十八番だった。
山に入れば誰よりも早く斧やナタを振るってはシロアリを見つけ、自作の吸虫管で採取してはみんなに見せる。
採取したシロアリは山根さんの専用カメラで撮影し、液浸サンプルにする。そして深夜までシロアリ談義をする。どこに採取に出かけても、こうしたスタイルとなった。
また、1993年には私と星野さんは山根さんの依頼で伊勢は浅熊山の金剛證寺の燻蒸処理に参加したが、逆に私たちの駆除工事やイベントに山根さんが岡山から駆けつけてくれたりもした。

シロアリ対策の流れの中で

山根さんは日本のシロアリ対策の最も中心的な位置に立っていたことは確かである。
一方では古くからのシロアリ技術者との親交が深く、他方では新旧の研究者と深く結びついていた。
そして、ヤマトシロアリ、イエシロアリといった身近なシロアリから外国のシロアリまでの広い見識を持っていた。
シロアリの触角の先端から尾突起の先端まで、彼ほど深く考察した技術者はいない。


2005年12月19日、闘病生活を続けていた山根さんがとうとう逝ってしまった。62歳という早すぎる死である。
奇遇にも私と星野伊三雄さん(東海白蟻研究所)が最後の面会者となったようだ。
私にとって12月になってから山口県という遠距離の出張駆除があること自体が偶然だが、それも家屋が大きいのでたまたま星野さんに手伝ってもらい、さらに 運良く予定が早く終わったので山根さんがイエシロアリを駆除した防府国分寺の槇の古木を見学し、その帰りに岡山の病院に山根さんを見舞ったのが14日の午 前。呼吸器をつけたままの会話だった。そしてそれが永久の別れとなった。
まるで山根さんが仕組んだ計画だったかのようである


タイワンシロアリの巣腔を撮影する (沖縄・西表島)

燻蒸シートを設置する山根さんら
(伊勢・金剛證寺)


天井裏から降りてきた山根さん
(和歌山県古座川町)


被害材を分解してシロアリを取り出す
(和歌山県古座川町)


樹木シロアリ採取のため木に登った
(高知県沖ノ島)


オオキノコシロアリを採取する
(中国・華南植物園)


星野さん(左)とは兄弟のような関係で
雑談の種が尽きない (台湾・民俗博物館)


近年は仕事でも採取でも
柿原さん(右)と行動を共にすることが多かった
(ベトナム)


訪中時の私と山根さん
(中国白蟻対策センター前)