生物多様性の維持とは現存する生物をそのまま維持するということと同じではありません。 生物の中には自然のうちに淘汰されていく生物種もありますが、これらを無理に人間の働きかけによって保護すれば自然のバランスを崩してしまいます。まし てや過去に生息していたものを復活させるというのもおかしな話です。 重要なのは、人間の活動によって他の生物の有様を変化させることが結局は人間の生活環境をも変えてしまうということを認識することです。しかも、ここでい う生物とはこういう議論によく出てくる有名な希少種だけではなく、目に見えない名もなき生物も含む全生物のバランスとして考えなければ意味がないというこ とです。 自然は破壊できません。「自然破壊」は 人間のための言葉です。いうまでもありませんが、人間がどんなに地球環境を破壊しても、自然は自然のままであって、ただ人間が自然のものとして自ら死滅の道を歩むというだけのこ とです。人間の価値を捨てて自然という視点から見れば、人間ごときが自然を破壊できるはずもないのです。破壊したつもりでも自然はそれなりに自然のままな のです。なぜなら人間も自然のものだからです。温暖化した高温の地球も自然であって、人間が住めないというだけです。人間の自滅も自然そのものであって決 して不自然ではありません。そもそも人間が自然を破壊できると思うのは、孫悟空が天の果てまできたと思って得意になっていたら如来の手のひらから一歩も出 ていなかったという話と同じです。つまり、人間が地球環境を維持するのはあくまで人間が生きるためのものです。これまではそれが理解されていな かったので、環境とのバランスを無視して生産活動を行ってきました。とくに資本主義が時代の主人公となってからは、生産の無政府性が拡大し、自社の利益に つながればなんでも行い、やがて利潤追求は政治的対立を生み、挙句の果ては二度にも及ぶ世界大戦と核戦争の危機にまで到達したのです。 「多様性の維持」は変化をとめることを 意味しません。自然界 の変化はとまることはありません。まさに「万物は流転する」のです。地球の自己運動も同じことの繰り返しのように見えても決して同じ繰り返しはしていない し、結果として一方向に変化しています。多くの生物は自然のうちに生成・発展・消滅の道を歩むものであって、人間も遠い未来には今とはまったく異なる体つ きの生物になっている可能性もあります。生物としての利益、永く地球で暮らしていけるかどうかは、この変化をうまく受け入れて生きていくことが できるかどうかにかかっています。環境変化が急激であればそれについていけない生物は死滅するしかありません。しかし、人間はこの急激な環境変化を自ら作 り出してきたのです。森林の減少、温暖化ガスの増大、生産の偏り、そして生物相の変化、これらが急激に進行し、人間がこれについていけなくなる可能性が大 きくなってきたのです。 だから生物多様性の維持とは生物の変化をとめるのではなく(そんなことは不可能)、変化の速度を人間が受け入れられるものに維持することにほかなりませ ん。 人間のような動物は、環境の急激な変化に際して、昆虫のように仲間の死によって生き方を次々に変えていく能力がありません。できるだけ環境の変化が少ない 状況下で直接的な生命の生産と再生産を営む動物です。 したがって、人間は自らの行為が自然の関係性にどのように影響するのかということを意識しつつ生き ることが人間の利益につながるのです。 里山よりも身のまわりこそ「多様性維 持」の原点。だから維持されるべき生物の多様性は、人間のあまりかかわらない部分ではなく人間活動に近い場所ほど維持 されなければなりません。自然との緩衝地帯である里山はもちろんですが、里そのもの、すなわち生産地域や居住地域でこそ多様な生物が維持されるべきだし、 それが意識されなければなりません。生物はまさに多様であって、目に見えるものもあれば目に見えないものもあります。有名なものもあれば、まだ 名前もないものもあります。生物多様性の維持とはこれら全体に対して行うものであって、ある種のものだけを保護したり、ある種を復活させるというのは、意 図しない変化を引き起こしてしまいます。 また、生物多様性の維持だからと人間と対立する生物に対してそれなりの駆除や制御をすることまで否定するのは不自然なことです。しかし同時に、しなくて もよい生物の排除、ある種の虫を排除するのにすべての虫をいなくするのも本末転倒です。 通常歩く場所の泥跳ね防止のために一部をコンクリート舗装するのは必要ですが、汚いからと敷地のすべてをコンクリートにするのは、目に見えない生物に大 きな変化を与えます。 家を新築すればしばらくの間は微細な生物の関係性が不安定なため、いろいろな生物の活動か見られますが、これらをあらかじめ排除するようなことが可能だと しても、無菌室で生活しない限り生物をゼロにはできないのですから、その結果生まれる別の生物的な関係性が居住者にとっていいことかどうかは考えなければ なりません。 駆除すべき目標に限定して殺虫剤を使用するのは必要なことですが、なんとなく「いなくなるから」とか、どこにいるかわからない虫のために薬剤を使用する のは、それがいかに安全だといわれる薬剤でも、効果の規模が把握できないなら使用すべきではありません。 要するにな にごとも必要最低限、これが身近にできる生物多様性維持の第一歩といえるのではないでしょうか。 |