生き方の「仕分け」

 しかしまあ、よくもあれだけひどい番組ができるものだと感心した。
 外国のアリが「人を殺す」と恐怖感をあおっておいて、いきなり「日本にも‥」と横滑りさせる。てっきり移入種のアルゼンチンアリの「恐怖」かと思いきや、「アリ」つながりで強引にも日本のイエシロアリを持ち出した。
 タレントにイエシロアリの兵蟻を噛み付かせて「ギョヘーッ」と悲鳴を上げさせ、巣とはいえない貧弱な加害木を巣だといって「ウヘーッ」と騒がせる。そして肝心な根本巣の探知と駆除だけはまったく話題にもされない。
 数ヶ月前だったか、ある番組制作会社から電話で生きたイエシロアリの巣を取材させてくれと依頼があった。この番組がそれであったかどうかは知らないが、かかわらなくてよかったと思った。生物多様性を維持すべき時代になんとけしからん番組であることか。
 そもそもも民放というのはどうしてああいう手法しか採用できないのだろうか。どの「情報バラエティー」も扱う中身そのものは何でもいいようだ。中身より も「ギョヘーッ」や「ウヘーッ」が大事なのだ。だから今秋繰り返し放映されたスズメバチ番組でも、われわれが普通10分もかけずに静かに駆除するものを、 わざわざ巣を壊してハチを悪役に仕立て、カメラマンの周りに飛ばして「ギョヘーッ」とやっていたのだ。
 民放の場合、肥大化したタレント業界と癒着しているので、彼らの飯の種を提供し続けなければならない。なにがなんでも一人でも多くテレビに出すことが至 上命令であろう。芸はなくても高齢化して先輩風だけが一人前のタレントのために一つずつ番組をあてがい、そのまわりに子分のような太鼓もちタレントを多数 まとわりつかせる方法が一般化しているようだ。
 これとは逆に、タレントどころかレポーターすら出てこないNHKの「世界ふれあい街歩き」のようなすぐれた番組を見ると、一服の清涼剤のような気持ちになれるのはこういう世情だからだろう。
 民放がタレント集団とのくされ縁を切り、彼らにつぎ込むギャラを取材にまわせば必ず魅力的な番組ができるはずだ。しかし実際は番組制作は下請けに丸投げ し、下請け同士を視聴率で競わせてはスポンサーに売り込んで生きているのが民放各社だからやむをえないのかもしれない。ワイドショーでも独裁国家と見まご うほどの画一情報や一面的情報ばかりで、どの局を回しても同じ顔が出ているし、朝っぱらから天気予報のように占いを垂れ流す。
 そのくせ大事な情報はほとんど伝わってこない。「後期高齢者医療制度」や「障害者自立制度」が国会でどんな扱いをされているのかなど、せめて殺人やタレントの薬物汚染と同様にしつこく報道してもらいたいところだ。
 バラエティー番組のあまりのひどさに、最近放送倫理・番組向上機構(BPO)が民放連に意見を提出したというが、あまり実効はなさそうだ。そろそろ民放各社も国民の手による仕分け作業でハッサバッサと切り込む必要があるようだ。

 ところで家を建てる場合も仕分けが必要である。
 何が大事で何が副次的なものかを整理しないと、新築までこぎつけた勢いでつい何でも受け入れてしまいがちである。
 たとえば、デザインや間取り、材質の選択では、ビルダー側の説明の中でのような抽象的な家族のあり方や変化でなく、実際の人々の生活変化に基づいて取り入れる要素を順位付けて査定すべきである。
 一家団欒を夢見て広い部屋を作っても、実際に一家団欒できている家庭はどれほどあるのだろうか。対面式キッチンがかえって部屋を狭くしていないだろうか。吹き抜けよりも一部屋多いほうがよかったのでないだろうか。
 多くの場合、まだ子どもが自分で十分に動けない時期までは建物への手入れも行き届いているが、子どもに手がかかるようになり、外部との付き合いも多くなってくると、家がほったらかしになりやすい。
 壁は汚れたままになるし、荷物の整理がつきにくくなり、建てた当初に予想した「動線」なるものがふさがれたりする。「動線」だからこそ物が置かれるの だ。広い部屋は荷物で狭くなり、テーブルも半分は荷物である。なまじ収納スペースが多すぎるのも考え物だ。出したものをしまうのがうっとおしくなる。近藤 某さんのやり方に従って整理したつもりでも、100円ショップの小物ケースばかりがあふれてしまう。
 私もかつて4畳半+6畳とキッチンの公営住宅に一家4人で住んだことがあるが、今よりもはるかに狭い空間にもかかわらずとくに狭苦しさはなかった。逆に 今の我が家では10畳あまりの居間に一人で転がるだけでも狭く感じられる。雑多なものがあちこちでスペースを占拠している。しかも二階のウォークインクロ ゼットはすでに満杯、階段の踊り場も荷物だらけ。
 何でそうなるのか。つまり便利なモノのおかげで便利に暮らす努力が封じ込まれてしまうのである。機能をモノで追い求めたために別の機能が犠牲になっているのである。
 私の知り合いが常日頃ダンボール箱だらけの和室を洋間に変えたという。行ってみるとその洋間にまたもや段ボール箱が詰まっていた。たぶん段ボール様たちが「和室はいやだ」とおっしゃったのでリフォームしたのだろう。
 つまり便利にすごす努力、快適に過ごす努力を確認したうえで「あれができます」「これがついてます」「省エネです」「快適です」といった「あれば便利だがなくてもすむ」機能をそぎ落としていくと、ずいぶん無駄が省けるのではないだろうか。
 以前あるセミナーで、最新の気密住宅と昔ながらの壁土+トタンの家の居住者が満足度ではあまり変わらないという発表を聞いたことがある。日本のような温 暖な国では、そこそこの家に住めれば暑さや寒さで困ることはない。寒いと思えば寒いし、暑いと思えば暑い。生活のところで特に省エネしなくても、温暖化ガ スの大多数は産業活動から出ているのだから、個人生活ではほどほどの配慮でいいのだ。
 建物の機能に使うべき資金を、その時期でしか体験できない思い出作りに費やすとか、将来のいくつかの計画のために貯蓄するほうが意義があるのではないだろうか。
 我が家では家はボロで貧乏しているが、無理をしてでも毎年家族そろって旅行している。神社仏閣、街歩き主体だが、二十歳すぎの子どもたちも小さいころから欠かさず全員参加している。今年は何かと話題の栃木をまわってギョーザやレモン牛乳を味わった。
 ともかく「コンクリートから人に」という新政権のスローガンにならって、家庭でも「モノから人に」を実行してみたらどうだろう。
2009/11