性善説‥‥?

 赤ん坊が元来善人だという実験が発表されたが、どうも納得いかない。
 京都大学や豊橋技術科学大学のチームが発表した試験によると、さまざまな場面でひどい目に遭わされたり苦しんだりしている弱者側に乳児たちの大半が「同情的な態度」をとったという。だから赤ん坊は元来善人だというのである。
 試験の方法をテレビでやっていたが、四角い図形の動きを追うように丸い図形が追いかけて、ときにはぶつかったり不規則な形で接触したりする動画を乳児に見せて、その後四角と丸の模型のどちらに興味を示すかを統計的に集約したものだという。
 たしかに動画の動きは弱者の四角図形がいじめっ子の丸図形にいじめられているかのようにも見える。しかし、それをいじめと思えるのは大人の感覚ではないだろうか。
 試験の前に乳児にいじめという概念があるかどうかを検証すべきであろう。
 あの図形の動きは別の見方をすれば、親についていく子どものようにも見える。あるいは動きの先頭の個体を意識して必死でついていく生物の群れのようでもある。人間の乳児も生物の子だから、子どもが互いに競い合いながら親から餌や乳をもらおうとついていっていると考える方が自然ではないか。追われる方の四角図形は乳児から見れば母親であろう。
 どうしてあれをいじめと思ってしまうのかわからない。
 しかも、新聞の見出しでは「性善説の証明」などと書かれている。

 だいたい巷での「性善説」「性悪説」という言葉の使い方は必ずしも本来の意味ではない。たんに「私は人間を信じます」という程度の意味で「私は性善説を信じたい」などと言ったりする。
 「当店ではお客様が計算して申告するシステムです」の「システム」や、「あまり調子のいい話には乗らないのが私の哲学です」の「哲学」のようなものである。
 ネット上で見られる説明でも「善」と「悪」の言葉の扱いが現代風の「良い」「悪い」であることから道徳論や宗教観になりがちで、歴史の中で「善」と「悪」を捉えた説明はなかなか見当たらない。

 まあ、そんなことはここではどうでもいいが、やはり乳児がいじめを意識してもともと同情心があるというのは納得できない。

 かつてよく似た試験にチンパンジーを使った「なぜ人はヘビを怖がるか」というのもあった。
 たしかに遺伝的に刷り込まれた警戒心はあるだろう。しかし、とくに現代人が普通に怖がるのは社会的に醸造されたものの影響のほうが大きい。
 もしも遺伝的な警戒心が主な原因で人間がヘビを怖がるとしたら、なぜ概して昔の人間よりも現代人のほうが怖がるのだろうか。またカエルやイモムシを平気で触る年頃の子どもはヘビもそんなに怖がらない。大人のほうが大騒ぎをする。つまり大人による恐怖の刷り込みのほうが大きいのではないだろうか。
 だから「怖がること」一般の試験データで現代の「怖がること」を論ずるのはどうかと思う。

 最近目立つのは自然の家と居住者の意識の矛盾である。
 木の家というのはいわば他の生き物の餌でできた家である。少々食べられて当たり前だ。また、自然というのは生物の塊だから、家は人間の「個室」ではありえず、どんなに密閉しても何らかの生き物は入ってくる。
 しかし最近目立つのは直接に害を受ける生き物でなく、「不快害虫」と言われる生き物への異常な恐れと混乱である。やり過ごせばいい虫をやり過ごせなくなっている。
 アリが出たといって大騒ぎになる。アルゼンチンアリなら何らかの対応が必要だが在来のアリだ。10頭前後で「たくさん」と言ってしまう。
 1ミリほどのヒラタチャタテのようなほとんど無害な虫でも大騒ぎになる。
 ヤモリは「家守」だからと頭のなかではわかっていても、できれば見たくないという。
 とくに新築直後はその土地の環境変化の直後であるし、建物自体の湿度バランスもできていない。当然にも建物内外の多くの生き物が大きく行動して目立つようになる。
 頭の中では「自然のことだから」とわかっていても心が許さない。理性と感情が乖離している。
 こうした状況はうつ病などと同じように現代病の一つとして、すなわち精神的な病気としてあつかう必要があるように思えてならない。
 そして理性的認識と乖離して異物・異形を極端に嫌い排除しようとする傾向は、子どものいじめにもつながるように思える。

 現代の子ども同士のいじめでは、いじめる側もいじめられる側もいじめが悪いことだと認識しているが、認識と行動が乖離し、いつの間にか遊びといじめの区別がつかなくなってしまう。
 つまり青少年期の子どもですらいじめという概念が曖昧なのに、いわんや乳児おや、である。
2013/8