八十路も半ばの元気な小学校の担任と我々同級生総勢16名で、昨年末、伊勢・熊野方面に一泊旅行した。 私にとってこの方面は、シロアリの採取・駆除から私的な旅行も含めて数えきれないほど通っているので、観光地や社寺仏閣、道中の景色や見どころも一通りわかっている。そこで私がバスガイド役となった。 熊野方面へのアクセスはますます便利になっている。以前は岡崎から紀伊勝浦まで7時間近くかかったが、今では紀勢自動車道などの自動車専用道のおかげで4時間あまりで行ける。ただ、トンネルばかりで旅情はないので、旅情を味わいたい場合はやはり在来の国道42号線を走らなければならない。 今回は暖冬のおかげで温暖な天気に恵まれ、速玉大社、那智大社、串本方面をゆったりと回る旅となった。 世界遺産に指定されてから、熊野の名所はかなり整備された。 鬼ヶ城は、以前は赤鬼の像が立っていたりしていかにも観光地っぽい施設だったが、今ではすっきりと綺麗な施設になった。 鬼ヶ城からすぐ南の花の窟(いわや)神社も整備された。私が初めて訪れた時には入口前に小屋があっただけで目立たず、近年テレビなどで紹介されるまでは観光ルートからも外れていたようで、参加者のほとんどがはじめて来たという。今では大型バスも入れる駐車場や道の駅のような土産物施設まで出来てかなり賑やかになった。 ただ、神社に行くといつも気になることがある。 私が知人に「今まで一度も神社に手を合わせたことがない」というと「こいつ変わり者だな」という視線が集まる。でも変なことは言っていない。神社は手を合わせて拝むところではないからだ。 パンパンと拍手を打ったら手を下ろして礼をするのが神社の決まりのはず。合掌はありえない。しかし、仏教寺院でもないのに多くの人はなぜか拍手の後に手を下ろさずにそのまま合掌してしまっている。中には拍手もなしに合掌だけの人もいる。 テレビの旅番組でも、ほとんどのタレントは拍手の後に合掌している。 たしかに熊野三山のような神仏習合の神社なら、祭神の本質は仏なのだから合掌でもいいが、仏教の影響のない伊勢神宮や出雲大社で合掌して拝んでもご利益はないと思う。 社寺仏閣に興味があってもあまり拝まない私が言うのも変だが、つい人事ながら気にしてしまう。 そういう点では日本人というのはつくづくアバウトな民族だなと思う。 だいたい拝んでいる対象についてはあまり意識しない。祭神のアマテラスやイザナミを拝むというより、伊勢神宮や花の窟神社を拝むのだ。しかも仏式に合掌して。 そのアバウトさが昔から根付いていて、八百万の神とか神仏習合になったのだと思う。 まあ、心の問題だから他人がとやかくいうことでもないが。 アバウトな民族のせいか根拠もないのに「…といわれている」というだけで「触れると治る」とか「ご利益のある水」などにはまってしまう。 豊川稲荷奥の院では本尊よりも「触れたところが良くなる」という賓頭盧(びんずる)の前に行列を作ったり、諏訪大社下社春宮では本殿には縁のない隣の万治の石仏に人々が押し寄せたり、清水寺の音羽の滝でも正面の行叡居士や不動明王には目もくれずに「ご利益の水」だけ飲む人がほとんど。 自然信仰の神社ならともかく、仏教寺院ですら「パワースポット」などという自然信仰やオカルトのようなものを人寄せに利用している。 私は子供の頃、巻寿司を丸かじりするのは下品なことでしてはいけないと親から教えられたが、今では「恵方巻き」などというものが盛んに宣伝されている。どうやら一部関西のさほど一般的でない風習を強引に利用して寿司を売っているようだ。 これだけ自然信仰や習わしに影響されやすい日本人だが、他方では自然が破壊されることには無頓着である。 たとえば計画中のリニア中央新幹線だが、大井川の水源の山をトンネルが貫くことで大井川の水が枯渇する可能性が指摘されているにも関わらず、十分な説明なしに推進されているようだ。こういう自然(神)を踏みにじるような工事の起工式でもたぶん関係者が拍手を打って神々に祈るのだろう。「痛くない、痛くない」といって人を殴るようなものである。 シロアリ対策の世界でも似たようなことがある。 本来は必要に応じて穴を開けるのに、まるで儀式のようにきっちり等間隔に木材に穴を開ける。あるいは、すでにシロアリがいなくなっている被害部分に市販の毒餌箱を貼り付けてお祭りしていたりする。 江戸時代の百科全書『和漢三才図会』では、シロアリ被害が発生したなら「羽アリとは山に住むべきものなるに里にいづるはおのが誤り」という呪い歌を書いて貼っておくといいと書いてあるが、これと同じ水準のシロアリ対策が現存しているようだ。 これも信仰に近いのでとやかくいってもしょうがない。ただ、哀れである。 2016/3
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