「空」の思想と家の建て方

現代の宇宙論と仏教の般若心経の考え方がよく似ているという記事に出会った。
インチキな占い師や怪しげな前世解説者の文ではない。7月18日付の中日新聞に掲載された総合研究大学院大教授の池内了氏の「般若心経を読む」という文章である。
科学者として当然ながら氏は「私には仏教の教えを説いた経文を読むという意識はない」としていて、般若心経の中心的思想である「空」の思想が現代宇宙論と共通する側面が多く読んで楽しかったというものであり、般若心経で宇宙を解釈すべきだというものではまったくない。
般若心経では「色即是空」「空即是色」という。目に見える物質的なすべて(つまり「色」)は瞬間的な姿であってやがて必ずなくなってしまう。すなわち本質 的には「空」である。また、「空」は「何もない」というのでなく、すべての物質の抽象としてあるのであって、すべての物質を生み出す可能性がある。
これは例えば(と池内氏は言うが)、白い光に色がないのでなく三原色の光の重なりと考えられることや、ゼロがプラス1とマイナス1の和であるだけでなく、膨大なプラスの数と同じだけのマイナスの数の和でもありうることとよく似ている。
そして池内氏は現代物理学で言うところの「無からの宇宙生成論」につながる真空中での正負の粒子のバランスのについての考え方と対比して、般若心経における「空」の考え方との共通点に注目している。
そして氏は「あまりに学問の専門分化が進みすぎた反省から、理系の知識と文系の知を融合させるべきという声が高まっている。私のその試みの一つとして、仏典も含めたさまざまな古典を散策しようかと思っている」と結んでいる。

前置きが長くなったが、近年の家屋もまた般若心経的な(あるいは東洋医学的な)とらえ方がとくに必要になっていると痛感する。あまりに理系的、工学的に暴走しているように思えるからである。
現状としては、家と人間のあり方よりも「付加価値」や「斬新な機能」あるいはいくつかの数値によって「いい家」が語られていて、そうでない普通の家は「不快」「不健康」「エネルギー浪費」であるかのようにもいわれる。
しかし実際はそんなことはない。比較的新しい家なら基礎断熱や密閉性がなくてもとくに寒さや暑さによる不快感はないし、健康にも影響はない。居住してから の満足度も悪くない。ある程度のことは住まい方でなんとでもなるし、温度の感じ方も人それぞれであって数値では測れない。結露も材料や構造によってはある 程度までは問題なく、わずかな結露で問題が生ずるとすれば別に構造的欠陥やアンバランスがあることの方が多い。
間取りにこだわって広い居住空間を実現したつもりでも、10年もすれば広い空間は物置き場となり、実際は6畳ほどだけが使われていて広さの実感がなくなる ことが多い。収納も同じ。しまい込むものが増えるだけで少しも便利さを感じず、「あれば便利だが、なくてもいいもの」が蓄積される。収納の問題ではなく生 きかたの問題だということに気づくときには、次世代の子どもたちがまた同じ事を始めることになる。
商売柄いろいろな家を訪問しているとこういうことをつくづく感じるものである。
ところが、「○○システムが付いています」「○○値が△△で」「次世代省エネ基準で」などと施主の刹那的な「要望」や多機能神話が煽り立てられ、施主は目に見える「色」にのみに目が奪われる。
だから「地震に強い家」の「オール電化」が災害時にどうなるのかとか、土砂災害や隣家の倒壊による自宅の被災、断熱材など家屋組み込み型石油化学製品の将来の廃棄問題などは一顧だにされない。
そこには「家は朽ちるもの」「人は変わるもの」「万物は流転するもの」という動的な観点はまったくない。データや数値の上で完璧であればあるほど優れたものとされる(と思い込まされる)。
そして実際、かの「姉ハンブラ宮殿」のようなインチキがないとしても、あれやこれやの理屈のついた特殊構造の家屋で、割合早期に大規模な手直しが必要になる事例が目立つ。
考えても見れば、現在民家に一般化されている玄関、ベランダ、防水などは歴史が浅く、大まかな構造は同じでも細部については床組みや軸組みほどの原則性がない。
乾燥した国や生き物の少ない国で実績のある構造・材料でも、湿気や生き物の多い日本では通用しないこともある。

新築直後のシロアリ被害はこうした家屋の早期トラブルの象徴となっている。
シロアリの羽アリが数ヶ所から出ているのに、床下がない(土間床である)ために侵入経路や生息部分が特定できず、「もうしばらく様子を見ましょう」としか いえなかった家に今年も複数遭遇した。新しい家にむやみに穴をあけるわけにもいかないのでそう言うしかないが、こういうパターンがやたらと多くなっている ので困る。ある種の理屈(思いつき)を実現するために、民家に欠くことのできない床下が省かれたのだから当然である。この結果、居住者は入居して初めて自 然のありようを知り、床下のありがたさを感じるのである。同時にこの居住者は床下のない不便さや危うさと永久に付き合うことになる。
反対に、あえて付加価値を主張しない家、すなわち間取りも含め基本的な構造がシンプルで、メンテナンスしやすく、しかも、どの職人でもかかわることのでき る共通性の高い家なら、その後の変化に容易に対応できるし多様な発展が可能である。住まい手の実際の性格(表面的な好みでなく)にうまくあった間取りなら 6畳や4畳半の部屋でも広く感じられる。しかも狭い範囲の効率的な冷暖房の方が「次世代省エネ」の全館冷暖房よりも省エネであることは誰でもわかる。

こう考えれば、「完璧」なシステムの家には将来性はない(次世代の「新しいもの」に取って代わられるだけの運命だ)が、シンプルな家にはあらゆる「付加価値」を生み出す要素があるといえる。余計な機能で競争していないからこそ、次世代でも同じ位置を占めることができる。
「あるんだけどない、ないんだけどある」と、かつて永六輔氏がチクワの穴になぞらえた「空」の思想、この考え方にてらして家の建て方について整理しなおす必要がある。
「空」というのは頭で理解しても実践上は容易ではなく、かの西遊記で「天と同格(斉天大聖)」の旗を掲げて暴れまくった美猴王が「空」を悟って悟空となる修行がテーマの一つとして描かれている。
まあ、そこまで修行する必要はないが、家を建てるということは庶民にとっては一生に一度の事業であるだけに、その手の推進本やチラシの理屈に安易に踊らさ れず、まずはオーソドックスに地域に根付いている確かなものにこそこだわりをもつことが肝要といえる。まさに「及ばざるは過ぎたるより勝れり」(家康遺 訓)である。

2007/8