思えばたくさん殺したものだ
当サイトの「虫を嫌うのは病気だ」で子どもは虫をどんどん殺してもよいと書いていることに複数の方からご意見が寄せられた。
ご意見の中の主な内容としては、命の大切さを教えることを考えると「殺してもよい」というのはどうしても納得しがたく、かりに百歩譲っても死んだ虫をポイ捨てして次のをとりに行くのはおかしい、せめて供養することぐらいは必要というものである。
確かにそういうことも一理はあり、私も半分は同意している。ただ、子どもは(大人でさえそういう面があるが)発展途上である。いきなり結論から理解できな い。結論を理解しようとする気持ちや能力は子どもにはあるが、実際は充分にはできない。「命を大切に」「環境を守ります」と結論だけをうまく表現できる大 人受けのいい子どもでも、実は本音の部分では別世界をもっているものだ。
私が小学生の頃、教室の水槽で飼育していた金魚が死に、誰かの発案で墓を作ることになった。それは教室における自然な行動だったかもしれない。教師に評価されたいという気持ちも子どもらしい。
しかし、そういう当時の私たちでも、川に魚釣りに出かけた際などは実に多くの生き物を平気で殺している。帰りに要らなくなった魚は適当にうち捨てたし、餌 のアメリカザリガニは頭だけちぎったものをあちこちに放置したままだ。しかも、道すがら見つけたカエルやヤマカガシの口に「2B弾」を突っ込んで爆発させ たこともある。しかし誰一人墓を作るものはいなかったし、悪いとも思わなかった。死骸はカラスやイタチなど他の動物が処分した。これもまた自然の姿であ る。遊びの世界では誰かに評価されなくてもいいのだ。
そして、今よりはるかに多くの子どもたちが全国どこでもこういう遊びをしていたはずだが、魚もヘビもザリガニも減ることはなかった。減ったとすれば原因は 不自然な河川改修や開発であって子どものせいではない。結果が物語っているのは、大人による不自然な河川改修や開発は自然と共生していないが、子どもが気 持ちの趣くままに生き物を殺して遊ぶのは自然との共生の範囲内だということである。
子どもは残忍であると昔からいろいろな書物に書かれた。しかしそうした残忍な行動によって子どもは肌で学習し、多くの生き物から教えを受ける。カブトムシ を潰すと黄色い液が出ることや、バッタは黒い液が出ること、あるいはカマキリを潰すとハリガネムシという長い虫が出てくることなどが印象として脳裏に焼き ついた。そしてお盆の期間だけは大人から「殺生するな」といわれてこれを律儀に守り、決して魚釣りや虫取りには行かなかった。
そうして子どもは成長するにしたがって生き物の死に直面する経験を積み、やがて大人となってから「虫供養」をするようになり、しまいには故今東光氏のように頭に止まった蚊すら殺さない境地に至るのである。
子どもの心の奥の別世界にかかわることができるのは、実体験と体験本の読書しかない。読書は他人の体験を追体験することができるが、読書がきらいな子どもは実体験しかない。
虫を面白半分に殺したり、傷つけたりすることは、必ずしも子どもの心を悪い方向に導くものではない。思う存分虫を玩具にしてもらいたいものである。供養などは大人になってから、あるいは自然の内に気がついてからで充分である。
要するに、大人は子どもに「むやみに生き物を殺すな」といってもいいし、大人が行う虫供養に参加させるのもいいが、虫を殺すことを含む子どもの遊び方まで大人のスタイルに封じ込めるなということである。子どもがペットの虫をポイ捨てしたら、大人が供養すればよいのだ。

2005/8