亜砒酸とはどのような毒物か
砒素は、自然界に広く存在する物質であり、地球上で核分裂でも起きない限り消滅しない自然物で、身の周りの植物や土の中あるいは温泉の湯
などには常に微量存在しています。また、人間の体の中にも必要な物質として微量存在しています。
人間は昔からこの砒素化合物を毒物としても薬剤としても使用してきました。とくに亜砒酸(三酸化砒素)は、歴史上に登場する毒殺事件での
多くの場面で使用され、また逆に、一部では内服薬や歯の治療手段として医学的に用いられたり、あるいは、害虫駆除にも使用されました。
また近年、砒素化合物が白血病の治療に使用されたり、最近では亜砒酸の抗ガン作用についての報道もありました。
亜砒酸が害虫駆除に使用される記載としては、中国の宋応星が書いた『天工開物』(1637年)という古文書があり、「陜洛之間、憂虫蝕
者、或以砒霜拌種
子」と書かれています。ここでいう「砒霜」というのが亜砒酸なのですが、「霜」という文字を見て納得のいく人はこの物質に詳しい人です。
ところで、この亜砒酸が近代にいたるまでシロアリ駆除に使用されてきたのは、シロアリ一般ではなく、イエシロアリ特有の生態に非常によく
適合していたからにほかなりません。
イエシロアリの駆除技術は中国には古くから伝統的に存在していましたが、それは一部の農民の間に点在していたのであり、体系だった駆除法
として定式化され
ていませんでした。ところが、日本による台湾の侵略占領の時期に、日本の昆虫学者が台湾でシロアリを研究し、とくに軍の施設や新たな建物
のシロアリ駆除、
とりわけイエシロアリの駆除のために多くの実験を試み、近代的な薬学や知識と伝統的な駆除法とが結合されました。そしてこうした中から生
まれてきたのが、
亜砒酸によるイエシロアリの駆除だったのです。すなわち、ヤマトシロアリなどの被害は、他の薬剤でもなんとかなるが、イエシロアリだけは
巣ごと駆除しなけ
れば被害を抑えることができず、そのために最も適していたのが亜砒酸だったのです。
亜砒酸がなぜイエシロアリの駆除に適しているかというと、この物質の次のような性質によるものです。
- 無味無臭であること。
- 使用に堪える確実な毒性があること。
- 遅効性(ゆっくりと効く)であること。
- 基材(製剤の材料)の工夫によって効果がコントロールしやすいこと。
集中性の強いイエシロアリの集団では、シロアリは異物に対して集中的な対応します。単なる異物の侵入や環境変化には、集団全体でこれを克
服しよう
とし、異物の排除作業や巣の外壁の更新を全体で行います。ヤマトシロアリのように環境を放棄して移動したりしません。巣が攻撃され、維持
できなくなって
も、イエシロアリは他の場所に移動するのでなく、本巣を移動するだけで、巣系(巣のネットワーク)は移動しません。
だから、巣系を駆除せずに薬剤をどれだけ散布しても被害がなくならないのはこの性質によるものです。
こうしたイエシロアリに効く薬剤とは、シロアリに薬剤が認識されて対抗措置が講じられないうちに、巣系全体に薬剤が行き渡らなければなら
ないし、彼らの活
動とともに薬剤が伝達されなければならないのです。つまり、シロアリが気づいたときにはすでに巣系全体に薬剤が行き渡っているような薬
剤、すなわち「見え
ない薬剤」でなければならないのです。
亜砒酸はこうしたイエシロアリの性質に特別にうまく適合した薬剤だったのです。
逆に、集団に集中性のないヤマトシロアリにはきわめて適用しにくい薬剤であって、実際例外を除けばヤマトシロアリには使用
された歴史はありません。一部の本などにかつてシロアリ駆除全体で亜砒酸が使用されていたかのような表現がありますが、これはまったく間
違っているのです。
どのように使用されたか
亜砒酸とイエシロアリの関係から、当然にもその使用法は、今日のシロアリ「防除」における大量散布のような乱暴なやりかたではなかったの
です。
つまり、シロアリに悟られないような施薬でなければならないのです。また、いくら亜砒酸とはいえ、薬剤原体の粉をそのまま使用したらシロ
アリに悟られてしまいます。
歴史的に各技術者は、自らシロアリとのやり取りの中で学んだ経験に基づいて処理用の基材(製剤)に工夫を凝らしました。微粉末に微量混ぜ
るとか、細かな粒
剤にするとか、水で希釈するなどさまざまですが、これらはいかにうまくシロアリに悟られないように薬物を手渡すことができるかという伝達
性の工夫です。
こうして、台湾での科学者の研究にかかわった人々は、日本と中国に分かれて、いくつかの流派を形成しながら駆除技術を広めていったので
す。
だから、基本的な考え方が日本と中国で共通しているので、処理に使用する器具も似たものがあり、例えば片方にゴム球のついた、大型のスポ
イトのような器具は日中両国に存在しました。
具体的な施薬については流派ごとに違いがあるのでここでは述べませんが、いずれにせよ亜砒酸での処理は、今日のようなやり方とはまったく
異なるものであ
り、技術者の判断に基づいて微量施薬することにより、巣系全体を処理したのです。だから、知らない人から見るとおまじないのようにも見え
たのです。
ここでは、施薬の量、場所、タイミングのすべてにおいて技術者の判断が貫かれるのであって、今日のように入社したての作業員がいきなり薬
剤を散布するなど
ということはまったく考えられないのです。またそもそも、伝統的なイエシロアリの駆除に液剤の消毒風の散布はあり得なかったのです。
こういうことを理解しない人が、「亜砒酸は食毒剤だから」といってシロアリのいそうな土に埋めて回ったということがかつてあったそうです
が、こうしたこと
はまともなイエシロアリ技術者のところではありえないことだし、効果もありません。また、和歌山の事件のときに報道されたような亜砒酸の
消費量も、イエシ
ロアリ技術者から見るとまったく異常なものだといえるのです。
日本と中国で培われた”思想としてのイエシロアリ対策”が存在しないアメリカやオーストラリア、あるいはアジアでもインドなどの国では、
イエシロアリもヤ
マトシロアリも区別なく、最初から薬剤に頼った大量散布で対処してきたのです。そこではドラム缶なん十本という途方もない量の薬剤が家屋
であれ畑であれ投
入され、それでもなお駆除に至らなかったのです。
だから、アメリカでは「spray is
pray(薬剤噴霧とは祈ること)」という洒落まで流行るほどイエシロアリ(英名formosan
termite)が恐れられながらも、駆除という意味が理解されてこなかったことから、とうとう今日見られるようなベイトシステム(シロ
アリ無差別撲滅シ
ステム)にたどり着いたのです。
いいかえれば、日本と中国では亜砒酸による伝統的なイエシロアリ対策の思想が存在したことによって、長い間大量散布が抑えられてきたし、
細々ながらも思想としての「シロアリとの正当なやり取り」が維持されてきたとも言えるのです。
亜砒酸の技術を知る技術者は亜砒酸がなくても駆除できる
亜砒酸によるイエシロアリの駆除は、亜砒酸という薬剤に頼ったものではなく、あくまでイエシロアリとまじめにかかわる姿勢によって成立す
るものです。
現在は亜砒酸は使用されてはいませんが、技術者がどんな薬剤を選定するにせよ、基本的な考え方は亜砒酸によるイエシロアリ駆除の思想に基
づいて行われてい
ます。したがって、そこではマニュアル式の薬剤散布ではなく、イエシロアリとの真剣なやり取りのなかで、最も適切な判断で施薬されるので
す。
現在アメリカ式のベイトシステムやその亜流の宣伝に「生態を利用した画期的な防除」などと生態をわかってしまったかのような表現が目立ち
ますが、イエシロ
アリはもとよりヤマトシロアリですらまだまだ生態は明らかでなく、とくにイエシロアリではシロアリの動きに応じて今もなお毎回技術者の真
剣勝負が行われる
のです。
逆にいうなら、亜砒酸があれば経験のない人でもイエシロアリが駆除できるというのではないし、また、亜砒酸による駆除思想の持ち主なら亜
砒酸がなくても駆除できるのです。
亜砒酸について語ることができるかどうかは技術者の試金石
和歌山の事件があってから、「うちではあんな怖い薬は使っていません」といって宣伝するシロアリ業者も見うけられましたが、大切なのは使
用したかどうかで
はなく、亜砒酸とシロアリ駆除についてきちんとした説明ができるかどうかであり、現在では技術者の真偽を確かめる試金石でもあるのです。
つまり、亜砒酸を正しく語ることのできる技術者は、すくなくともイエシロアリと技術者との間のやりとりについてある程度の知識をもつ人で
あることには間違いないし、どこにも文書として記載されてない知識をなんらかの形で習得する行動をとった人だといえるのです。
逆に、シロアリそのものではなく、薬剤散布による「防除法」の安全性やシステムの「安全性」しか語ることのできない人は、出発点が化学物
質の大量散布であって、薬剤やシステムに頼りきった対応しかできません。
ほんの微量の亜砒酸をイエシロアリに手渡すことよりも、シロアリがいてもいなくても200リットル近い薬剤を仕様書どおりに散布すること
のほうが安全だと
主張したり、やみくもにシロアリを殺しつづけるシステムを「レスケミカルだから地球にやさしい」などといって信仰するのは、技術者として
立派な態度とはい
えないのです。なぜなら、そういう人は薬剤やシステムがなくなったらシロアリと向き合うことができないからです。
「シロアリと常に真剣勝負で接すること」、「常にシロアリに学んで自己を研鑚し、最も効果的な方策を常に探求する」、「最も適当な手段を
選び、余計なこと
はしない」、「自己の判断で薬剤を選定し、施薬の部位を決める」、こうした思想こそが亜砒酸によるイエシロアリ駆除の本質であって、それ
はとりもなおさず
シロアリ対策の思想の根幹をなすべきものでもあるのです。
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