朗読劇

中堀 由希子「二十一歳の別離」
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遠藤 允著「21歳の別離」より 
株式会社 学習研究社刊 


プロローグ Real Audio
 昭和四十六年十一月十四日
市立岡崎病院で、由希子は生まれた。
市内の六名小学校・竜海中学校をへて、光ヶ丘女子高校へと進んだ由希子は、平成二年四月、ニュージーランドのクライストチャーチに留学した。
八月、ニュージーランドへやって来た家族は、丸々と太った由希子と、ニュージーランド・オーストラリアを回り日本へと帰って行った。
いったい誰が、二ヶ月後に白血病と告知されると考えただろうか…

第一場「告知」
 十月、一緒に留学した友人たちと、バスハイキングに出かけた由希子は、家に 戻ってからぐったりと疲れてしまった。なかなか治まらない頭痛と発熱を心配したホストマザーは、クライストチャーチ中央病院へ連れていった。

(中央に机・両側に椅子が一つずつ。白衣を着た女医・上手から登場してすわる。手にはカルテと辞書。由希子、下手から登場して下手の椅子にすわる。)

女医 (カルテを見ながら)ミス・ナカホリ。あなたの病気はリューケミアです。

由希子 リューケミア?(よく分からないといった表情)

女医 (辞書をめくり、由希子に差し出す)

由希子 (辞書を受け取ってのぞきこみながら)リューケミア…白血病(棒読みして)白血病なんですか。(おどろいて)

女医 (うなづく)ニュージーランドでは、どんな病気であっても患者さんに、はっきり告げます。(ゆっくりさとすように)病気が、今見つかったからよかったけれど、もし何もしないままだと、あと二・三週間しかもたなかったでしょうね。すぐ入院してもらいます。今晩にも白血球除去をやりましょう。

由希子 (立ち上がり、空をあおいで)先生。私の将来はどうなるんでしょうか。(暗転、机と椅子を下げる)

第二場「闘病」 Real Audio
 ニュージーランドでの治療が効を奏して体調も整った由希子は、留学を断念し十一月三日、迎えに来た両親と共に白血病を治療するため日本へ帰ってきた。
しかし、大好きなホストファミリーたちに会うことは、もう二度と出来なかった。

十一月五日  名古屋第一赤十字病院に入院。
十一月十四日 十九歳の誕生日を病室で迎えた。
明けて平成三年一月二十八日退院

このころ、十四年間飼っていた犬のコロが死んだ。四年前妹とペットショップで買い求めたウサギのハチも死んだ。二匹のペットがあいついで死んだのは、自分の身代わりだと由希子は強く感じていた。
平成三年九月十日、再び入院。一回目に入院した時の闘病仲間が何人も亡くなっていた。自分のHLAと一致するドナーが見つからない不安をかかえながら由希子は、白血病で亡くなった安積成美さんの両親に手紙を出した。成美さんをえがいた本を読んで、深く感銘をうけてのことだった。

由希子 (下手に置かれた椅子にすわって)
「親元を離れた遠い国での病気はとても辛かったけれども、私は告知されてよかったと思っています。もし病名を知らずにいたら、あれこれといろんなことを疑い、しかも誰にも聞けずに一人で苦しみ、不安で仕方なかっただろうと思います。知っていた方が、お医者様にも接しやすいだろうし、私も納得して治療ができます。成美さんに教えるべきであったかどうか、お母様は今でも思い悩むことがあるそうですが、成美さんは恐らく知っていたのではないかと私は思います。でも聞けなかったのではないでしょうか。いずれにしても、成美さんには周りの人の思いが病気より強く分かっていたでしょう。患者にとって一番嬉しいことは、やはり周りの人の支え、励ましだと私は実感しています。成美さんには素敵なご家族と恋人、友達が何よりの宝であっただろうと思います。私がこうして強く頑張れるのも、本当に周りの人の支えがあってこそなのです。絶対病気に勝って、天国にいる成美さんにも喜んでもらえる日がくることを、心から願います。」

第三場「講演」
 平成三年十一月十四日、せっかくの二十歳の誕生日を由希子は病室のベットの上ですごす。
このままなら「フツーの患者」で終わっていたかもしれない。
十二月 ドナー登録者を増やすために全国を駆け回っていた大谷貴子と出会った由希子は、骨髄バンク運動に協力していった。テレビに出演して自らが白血病患者であることを公表した由希子は、骨髄バンクのシンポジウムや講演会で自分の体験を涙ながらに話し、骨髄バンクへの協力を訴え続けた。

「病気になって、私の人生は変わりました。変わったというよりは、始まったのかもしれません。私は病気になって初めて、生きるということの大変さと素晴らしさがわかったような気がします。」

「これまでの私は、ただ漠然と生きてきたように思います。楽しいこと、つらいこと、喜んだり、泣いたりしたけど、死という恐怖に遭ったことはありませんでした。だれにでもいつかは必ずやってくる死ですが、いつもそのことについて考えなければいけないというのは、言いようのない苦しさです。」

「私たちにとっては、骨髄バンクこそが一筋の光なのです。骨髄移植をすれば助かるかもしれないのです。助かる方法があるのに、提供者がいないために死んでいくのは、とても耐えられません。骨髄提供するのは、とても勇気がいると思います。提供者の麻酔事故だって、百パーセントないとは限りません。でも、私達患者も死と隣り合わせなのです。」

「私と同じように苦しむ人々に、どうか生きるチャンスをください。白血病は今や不治の病ではないのです。骨髄移植で助かるのです。私は、それを証明したいのです。長生きすることができたら、つまらない人間で一生を終えたりしません、ここでお約束します。」
「今、こうして病気と前向きに闘えるのは、私を支えてくれるたくさんの人々 のおかげと、私がまだ希望を捨てていないということだと、自分では思っています。わたしには絶対明るい未来があると信じています。提供者が早く現れる ことを、心から祈っています。」

由希子は、白血病と闘いながら治療のために失った髪にかつらをつけて、病に立ち向かう仲間たちへの支援のため意欲的に活動した。

第四場「ウェディングドレス」 Real Audio
 日本では、由希子に合うドナーが見つからないためにアメリカの骨髄バンクへも検索を依頼した。その結果、幸運なことに由希子に適合するドナーが六十七万人の登録者のうち、たったひとり見つかった。
いよいよ移植の決まった由希子は入院を前に友人に手紙を送った。

由希子 (下手の椅子に座って)
「結婚、みんなあんまり早くしないで。私は困るよ。だって、きっと私結婚出来ないもん。でも今度、神戸行ったらウェディングドレス着て写真撮ってくるんだ。ウェディングドレスを結婚前に着ると、お嫁に行くの遅くなるっていうけど、本当にどうせ遅くなるか、できないんだったら、着ちゃうもーん。それで自分で写真見て、結婚した気分を味わうの。もうほとんど離婚したバツイチの女の状態。若いうちだけよ、ドレスが似合うのは。でもね実は私、本当はすごい結婚にあこがれてたんだ。子供はキライだって皆に言ってるけど、やっぱり自分の子だったらかわいいと思うし、ひそかに子供が生まれたら何て名前にしようかなーと思っていたのであります。まあ皆がお母さんになっても、私はお母さんにはなれないので、皆の子供には「オバさん」とは呼ばせないぞ。「コラッ!お姉ちゃんと言いなさい!」としつけましょうね。皆がお母さんになって、自分だけなれないショックで人形をだっこしたり、おんぶしてたらどうしよう。怖いわー。」

様々な不安に打ち勝つために由希子は、あこがれの神戸旅行に出かけた。そして北野のハリウッド・スターウェイでウェディングドレスを身にまとい記念撮影をした。

第五場「移植」
 平成四年十一月十三日、由希子は日本で初めて海外からの空輸によって提供された骨髄液の移植に臨んだ。
この試みに日本中のマスコミが注目し、その模様はテレビでも放映された。
無事移植を終えた時、由希子のメッセージが発表された。

由希子 (かげマイク)
「骨髄移植日は、二回目の誕生日といいますが、私は本当に今日が二十歳最後の日。明日からはこの素晴らしい命の贈り物で二十一歳になります。今まで生きてきた中でいちばん素晴らしい誕生日プレゼントでした。
ドナーの方が見つかるまで、一時は不安でいっぱいになり、くじけそうにもなりましたが、今はもう大丈夫です。今なお、この素晴らしいチャンスを待っているたくさんの患者さんのためにも、また、日本の骨髄バンクを盛り上げていくためにも、歯をくいしばって頑張りたいと思います。ドナーの方も、わたしのために頑張ってくださったんですから…。この大きな生きるチャンスを得たことは、もう言葉にあらわせないくらいの感動でいっぱいです。
ドナーの方、Thank you very much. 皆さん、本当にありがとうございました。由希子は頑張ります。」

第六場「旅立ち」 Real Audio
 一度は無菌室から個室に出られた由希子に、激しいGVHDがおそう。
平成五年一月十二日、肝臓の機能に障害をきたした由希子は、午前三時四十二分、移植から六十日後、天使の羽根をつけて旅立っていった。
健康を回復した由希子と旅行に行く計画をしていた友人たちに由希子の死の知らせは、あまりに衝撃的だった。

(中央に演台、久保由紀子中央へ)

高校の同級生であり、闘病中から中堀由希子さんのなによりの理解者であった友人のお別れのメッセージをお聞き下さい。

久保由紀子
「由希子さん――――そう呼びかければ、明るく笑って応えてくれるような気がしてならないのです。目を輝かせながら話を聞かせてくれたあなたの姿が、もう見られなくなるなんて、どうしても信じられないのです。
卒業後に発病した白血病の治療に対し、あなたは決して弱音をはかずに頑張っていましたね。私達が気をつかわないようにと、絶えず私達を気づかい、楽しい話をたくさん聞かせてくれましたね。そんなあなたの姿に、私はいつも励まされていました。
テレビなどを通じて自分の病気を公表するには、たいへんな勇気を必要としたことでしょう。けれど、あなたは、白血病を自分ひとりの病気としてではなく、他の患者さんすべての病気としてとらえ、あなたひとりが生き続けるためにではなく、そのすべての方たちに生き続ける希望と機会を与えるために、マスメディアを通じて全国の人達に骨髄バンクへの登録を呼びかけました。あなたの言葉に心を動かされ、ドナーとしてバンク登録した人が、私の周りにもいました。そして、あなたのその姿をみて、あなたと同じ病にかかり、骨髄移植を待ち続ける全国の多くの患者さんが、勇気づけられたはずです。
由希子さん。あなたが去年プレゼントしてくれた鉢植えの木は今、大きな葉をつけ、確実に生長しています。木々が深い根を張り、幹を太くし、青々とした葉を生い茂らせながら生長していくように、あなたが生前望んでいた国内の骨髄バンクの充実が、さらなるドナー登録の基盤の上に図られ、ひとりでも多くの患者さんが生きるチャンスを得ることができるよう願っています。
そして、私自身も、骨髄バンクの存在をより多くの方たちに知ってもらい、ドナーとして登録してもらえるよう、働きかけていきたいと思います。それが、あなたが、示してくれた優しさに報いる道であると信じます。」

エピローグ
 由希子さんがお亡くなりになって、四年の月日が経ちました。この二月骨髄バンクをかいしての移植は千例を越えました。しかしながらまだ、ドナーの見つからない患者さん、ドナーが見つかってもいろいろな事情で移植に至れず無念にもお亡くなりになっていく患者さんがいらっしゃいます。
私たちは、由希子さんの勇気を一人でも多くの方に知っていただき、骨髄バンクがさらに大きく広がっていくよう努力を続けていきます。
これからも皆様、どうぞご支援下さい。

最後にこの朗読劇を作ることを快く承諾して下さった「二十一歳の別離」の著者 遠藤允様と劇のために資料を貸してくださり、いろいろ応援してくださった中堀由希子さんのご家族に心から感謝いたします。

この朗読劇は、平成 9年 2月22日に
骨髄バンクを支援する愛知の会 「岡崎えんじぇる支部」による
ハートフルコンサートで行われたものです。
著者である遠藤允様には、掲載をご許可いただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。