法蔵寺「大神光 二村山 録事敬白」、「法蔵寺ご案内書」法蔵寺発行文献」などによる。
これには、第3項に「御草紙掛け松」とあり、東照公の幼名・竹千代。御年八才で岡崎より、当山に御入学、伯父にあたる、七世の教翁上人に就き、手習い読書を学ばれた云々。とある。中略・・・竹千代君は御座所の庭前に一株の松を植え愛玩せられていたが、10数年後当山に御入の節、この松の枝葉が優々として成長勢付けるを見られて、門前に移植し通行の都度にこの樹下で憩いをせられ、お茶を召し上がり「たんご」を召し上がられるを例として云々。とある。「そのまま写す。」
この記述8才を文献で確かめる必要がある。
さらに、追調査として、竹千代「家康の幼名」。竹千代の八才前後の居所がどうであったかを文献で調べなければならない。それによって、竹千代が三河本宿法蔵寺にて武芸・学問の手習いの事実がより真実になり正確になる。よって、調査すれば下記の如くになる。
「1」全国東照宮連合会文書著者、中村孝也氏によれば、、次のように書かれている。
三河の新興勢力たる松平氏は、駿河の今川勢と尾張の織田勢に挟まれた、しばしば、両者の戦略の渦に巻き込まれていた。岡崎の松平広忠は今川義元に付かざるを得ない事情もあり、義元の援助を受けるために、交換として、子竹千代を「人質」として、駿河の今川の元「駿河」に行かなければならなかった。天文16年竹千代8才のとき、駿河に行く途中に東三河で田原の戸田氏に奪われて、あべこべに尾張の織田信秀のもとに送られた。
信秀は喜んで、竹千代を熱田の館に抑留していた。この時に竹千代の生母「於大」が知多阿古屋で再婚しており、3才のとき岡崎城で離別させられた見知らぬ母から、隠れた愛情を受けたとされている。この時に竹千代の父広忠は24才でこの世を去った。
また、この時に今川勢が安城城を攻めて織田信秀の子信広を捕らえたから、竹千代と交換「人質交換」で、一時、岡崎城に竹千代は帰った。この時の父広忠の墓が土盛りのままの墓であり、8才の竹千代は今川勢に隠れて、泣きながら父の墓地に墓標の代わりに小松を植えたと言われている。「この史実は物語で語られ・芝居にもなっている。また、尾張熱田に抑留の時に離別の母が竹千代に寄せた愛情も切ない物語として残っている。」
これらの文献によれば、同月27日に岡崎から駿河の今川義元の所に人質として赴いた。とある。「これから13年間竹千代は駿河で今川義元の元で人質生活が始まるのである。」
「注」この文献には、同月27日に駿河に赴く。とある。従って物理的に15日か、20日前後期間だけ竹千代が8才のとき20日位岡崎滞在となり法蔵寺滞在が極めて高い。
もう一つの文献で、竹千代八才のときの所在と動きを検証してみたい。検証した文献は次による。愛知県文化財保存振興会編著者小野久一氏の文献の史実によることとする。
竹千代が八才になった天文18年11月10日、今川義元勢と岡崎勢の連合軍が安城城で織田軍の織田信秀の子信広を捕まえて、竹千代と人質交換が笠寺で行われ一時岡崎城に帰り、迎えたのは旧松平家臣鳥居忠吉ら数人であったが、この時すでに今川義元は、岡崎の重臣たちに「竹千代が一人前になるまで、この義元が預かる。」と言い、竹千代8才ときに直ちに、駿河の今川の所に人質となって行く約束が交わされていたのである。。この文献も竹千代が父の墓前に涙とともに小松を植え、付き人を泣かしたと書かれている。
竹千代が岡崎に滞在したのは僅か10数日で11月27日に今川義元の人質として駿河に向かったとある。この時岡崎は今川の掌中にあり、居りづらく、法蔵寺に伯父の7世教翁上人が居り身を寄せ、駿河え行く道沿いに法蔵寺があり岡崎滞在期間10数日を8才の竹千代は伯父が住む法蔵寺で身を寄せたことが、文献で竹千代法蔵寺手習の実証と考える。