徳川家康「徳川幕府初代将軍」「天下人」を育て・教育した三河の二人の僧侶
この記述は岡崎人物史「岩月栄治氏」と慈光院に関わる記事は改正三河後風土記「上」監修桑田忠親氏」文献から記述したもので、家康幼名・竹千代君が三河本宿法蔵寺にて手習いの伝承に関わるゆえに、本宿郷土史として取り上げなければならないから記述した。
家康の幼名竹千代は苦難な幼・青年期過ごし、人質生活で身を持って体験をしたことは歴史の史実と、本誌「本宿郷土1300年史」でも記述したところであるが、上記文献で確かめ、手習いの歴史資料として郷土の諸氏に供したいと思います。
教翁洞恵について
教翁洞恵は二村山法蔵寺の7世の法燈を嗣いだ人で幼い竹千代「徳川家康」を養育した人といわれている。東海道名所記に左の山中に法蔵寺あり、東照権現幼少のころ、この寺にてお手習いありし・・・」とある。竹千代の文台・硯石・手本が現存している。
中世末のころは、武家階層の教育は寺院で僧侶から学問を受けるのが習わしであった。なかんずく法蔵寺は松平氏「家康の祖先」から崇敬厚く、長沢松平をも名乗り、竹千代の伯父に当たる教翁洞恵7世法主に・文・武の養育をうけ、母なき竹千代の大成を思い、ある時は城に登り、寺に招き、文武を誠心誠意教えたと思われる。法蔵寺に伝わる縁起のなに、教翁自ら恵比寿尊神の像を刻んで竹千代に与え、その恵比寿の釣り魚を示してながら、「幸運は自然に至るもの、気を長く持て」と諭されたという。この逸話から伺えるように竹千代の伯父・教翁は幼くして父母から離された竹千代の成長期において、その人格形成に少なからず、強い影響力を与えた人物の一人であると言えよう。
資料・岡崎市史・愛知教育史・文徳編年集成より」
竹千代君人質の事・・・改正三河後風土記「上」桑田忠親し監修文献による。
要約・駿河将今川義元の応援を受けるため、人質を承諾した父広忠は子竹千代は徳千代と随者28人、雑兵54人海路三河から舟で田原経由で駿河に赴く途中、尾張の織田方の人質にさせられた竹千代は熱田で隣村に母お大が居り、人目を避けた母の愛情を受けたとされているが、その後に有名な人質交換により、竹千代はふる里岡崎に帰ることになるが、再会を夢見ていた竹千代は父「松平広忠」の墓標なき哀れな土墓をみて無念さを噛み締めたが、すでに岡崎城は今川義元の手中にあり、このとき義元は再び竹千代を人質にした。
人質解放から、次の人質になる期間に法蔵寺の手習いの伝承として、前述した7世法主伯父に、この期間に竹千代が養育されていたとの見方があるほか、次の史実もある。
改正三河後風土記「桑田忠親監修によれば、」
原文記述する。
天文一八年三月六日已西年御齢二四齢にてお隠れされ給ふ。いまだ盛んに満給程の御事にて、かかることあるべしとは思いよらず、御一族も御家人も愁嘆やるかたなし。かくありては、詮なければ上下泣く泣くも、ご遺体を大樹寺にて葬り礼行わる。「大樹寺・大林寺・松応寺等の記事によるに、この時織田方は岡崎を攻めんとす」
よって
今川家へ加勢を乞い給う。時節ゆえこの君ご逝去を敵方に聞こえん事御家人等の故、常々御帰依の法蔵寺教翁と相談し、お城近き大林寺へ密密に内葬式して、能見の原に密葬し、その後今川へも其旨注進し、大樹寺にて表向御葬礼は行はる。慶長一六年能見原の御葬地に一宇を建立し給う。これ今の松応寺という。松応というのは神祖「竹千代」八歳の御歳の御時御墓詣し給い其地に松を植え給いけるが、その松繁盛するにより、寺号とした。
陣祖