岡崎市史に記載、並びに本宿学区内で、古今に活躍した主な人々。
とみだじょうすけ 冨田貞助
本宿村農民。持高126石余で代官冨田家縁故の者。天保4年「1833」三州海辺の村より砂鉄を集め、鉄製造を始めようとして中泉役所へ鉄砂願いを提出した。その主旨は国益の増大と貧困する村方の救済にあった。許可されるや鉄砂吹き立て小屋を八名郡三度野村などの入会地に設け、吹試を開始したが、当初の見込みより鉄気が薄く、入用がかさんで採算が採れないため、同年6月に中止した。なお、貞助は天保4年、常州下君田村でも鉄山金主となり鉄製願いを提出した記録が残っている。この貞助の鉄製造に冨田群蔵が支援があった。天保4年群蔵は鉄山師3名を伯州日野郡昆縁村から招いたり、鉄座にくわしい松井右衛門と同宿しているところからも、大いに製鉄に関心を寄せていたことがわかる。「国益と村方の貧困救済であった。」
とみだつねあき 冨田庸秋
「1817ー1887」本宿陣屋3024石余、柴田家代官。群蔵常業の嫡子。通称牧太、恒三郎、環。天保4年「1833」に代官見習いで中小性席1人扶持鼻紙料300疋。同8年に江戸表在勤次間刀番、同15年に家督を継ぎ、代官に就任し70石を給された。弘化4年「1847」には近習席、慶応元年「1865」に長州征伐に随行。冨田家出身代官のうち、弓道・剣術・馬術などの武芸に励んだ人物。特に火術に関心を持ち、井上李衛から銃術、岡崎藩主千田頓五郎から荻野流、長尾応次郎から高島流の砲術を学んだ。岡崎藩と西郡・本宿両陣屋による合同稽古打ちや試打ち訓練に何度も参加し、三河の砲術家としてその名が高い。多くの砲術書・記録や控え・大筒原寸紙などが冨田家に残存。明治14年「1881」に郵政関係要職などになる。
とみだつねなり 冨田常業
「1789ー1875」本宿陣屋3024石余、柴田家の代官・用人。通称吟助、恒右衛門、群蔵と称した。寛政元年「1789」吉田藩士西岡銀七の4男に生まれ、文化10年「1813」本宿陣屋代官冨田運八常武の養子となる。はじめ中小席2人扶持4両。同11年に江戸表在勤で近、さらに小納戸兼帯供頭を勤め、同13年本宿陣屋代官に就任し、給人席。文政8年「1825」には用人となり、70石を支給された。天保15年隠居。明治8年「1875」没。代官就任中は卓越した見識をもって、農業用溜め池築造や甘藷栽培による砂糖の製造・ハゼ栽培・鉄砂吹試による製鉄など勧農と殖産に尽力し、国益と地域に貢献した。文化面では国学者として本居太平の岡崎士13門人の1人に数えられ、平田国学者とは文化11年から天保2年まで江戸在勤中に交友があったことが、残存の書状などから判明している。また、歌人としても、幕末三河歌人を代表する1人で「歌藻歌集」「類題三人歌集」など出詠している。文政2年山中八幡宮など白川家に関わりその活動は多彩で深い。本宿知行所内の福岡村永井の勝淵神社の字題字、地元法蔵寺の染筆を願い出ている。天文学・地理学分野にも修業しており、著書のなかに「鳥居考」・「稲荷神社考」・「三河旧地考」などがある。
注、「上記記述のなか、本誌内容と重複部分があるかも知れないがお断りします。」