東海道に架かる 精進橋の「 青銅・橋宝珠銘文 」・・・日本の母親が我が子の死に対し、残した日本の3つの 名文うちの1つに挙げられる母親の快挙とその銘文。
そのむかし・熱田宮の宿と鳴海の宿との間に東海道の精進川に架かる精進橋の欄干の橋宝に書かれた銘文は、日本の母親が我が子の死に対して、残した銘文が「日本の3名銘文「優れた銘文」として讃えられている、青銅・橋宝珠銘文を御紹介しょう。
本誌・「東海道宿駅四百年記念誌」
東海道と宿場の再発見より、
そのむかし、自分の子を亡くした母親が、橋という世の中や人々のために役立つものに悲しみを架けて、橋の欄干の宝珠に銘文を刻み書き置きしたものである。
元和八年「1622年」6月18日、亡き我が子の回忌にあたるとき、精進橋を架橋「亡き子の供養に橋を架け」、書き置きの書を残したものである。
母親の心情と 勇気は後世に語り継がれて、母親の美挙として賞賛されている実話である。
小田原合戦のとき、「天正18年・1590年」堀尾金助という若武者が、初陣と
して参加した。不幸に相模の地にて野辺の露と消え果てた。金助の母は我が子の冥福
を祈って、精進橋を架けて我が子金助のために供養し、我が子えの愛情を忘れ去るた
めに、・・・そして、銘文を書き残した。
切々たる母親の心情を146文字に綴り
橋の葱宝珠に刻み込んだのが「青銅・橋宝珠カタカナ銘文」である。
注、原文は「片仮名で読みづらいから読みやすく書き直す」と、次のようになる。
「天正18年2月18日」、「小田原への御陣、堀尾金助と申す18になりたる子を、
立たせてより、又二日とも見ざる寂しさ、死したる悲しさ、哀れさのあまりに、いま、
この橋を架ける也。母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え。逸岩世俊と・・・
あとの世の、また、あとの世までも、この書き付けを見る人は念仏を申し給えや。
三十三年供養也。」 このようになる。
龍芸上人 像 中世ころ、法蔵寺で活躍した高僧
注、逸岩世俊は金助のこと。
「熱田裁断橋物語・太平記」から、
現在の橋は昭和28年3月28日渡り始め。