幕末から明治へ

慶安2年「1649年」江戸幕府が農民に対し出した勧告は次の通り。

1,朝早く起きて草を刈り、昼は田畑を耕し晩には縄をない、俵を編み気を緩め ないで、それぞれの仕事をすること。
2,酒や茶を買って飲んではいけない。
3,百姓は考えを持たないから、秋になると米など計画無く妻子に食べさせてしま う
。麦・あわ・ひえ・大根・葉など雑穀物を多く作り米を食い過ごすないこと。
4,茶を沢山飲み、また、物見参りや遊びなど好む妻は離別せよ。
5,農民は麻ともめん「木綿」は着物に使はないこと。

以上、 過大な年貢を納め、納税に追われ「働いても、働いても我が家は楽に成らず」 は誰かの歌であるが江戸時代も一家が喰うに事欠き農民百姓は貧しい生活だった。  「息さえする暇もなかりき」は、当時をよく表している。 年貢率50lは「5公5民」と言い。60lは6公4民と言って苦しんだ。 アメリカで西暦1861年にリンカーンが 人民が 人民による 人民のための政治を、と堂々と自由の大演説をした。 日本では封建思想や自由はそれから長い間も与えられず 封建社会が続いていた。

富田郡蔵は寛政の頃西岡家に生まれ、24歳の時に本宿村の富田家に養子として後に、 本宿知行所に赴任した。学問と事業家に優れて本居家に入門し文学にも優れていた。 この地方に学問所を開き師弟の教育を進めた。農業用水の必要性を説きため池を造った。 砂糖や製鉄の製法を研究など産業にも高い見識があり、多く業績を残した。 安政5年「1858年」福沢諭吉は堂々と「学問のすすめ」と平等を説いた。 天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずといえり。さらば、天より 人を生ずるには万人は万人皆同じ位にして、貴卑の上下の差別無く霊たる身と、 心働くを以て云々、日米通商条約ペリー浦賀入港日本は開かれ平等が叫ばれた。 吉田松陰は鎖国から開国に、福沢諭吉は「学問のすすめ」を平等と学問を説いた。

額田県小学校は明治4年「1871年」2月22日学制発布1年前に庶民教育として 開校した。岡崎中心の郷学校的な額田県営で同5年1月額田県小学校として発足した。 額田県は標準学科課程,第1等から第5等まで5等級の編成課程で句読、暗唱、習字 算術の5教科にわかれ、時代に応じた万国公社・西洋事情・世界国尽・地理事始がある。 額田県彊記聞は岡崎で最初の新聞で木版刷り,こより綴じ縦20a・横14a・2つ折 り8丁、第1号明治5年「6月刊」第2号「9月刊」第3号「10月刊」で額田県が愛 知県に合併したときに終刊とと推定される。額田に10カ所、名古屋2カ所、東京1カ 所に置き、記事は県内のものが殆どで、資料的文記が多い記聞は今の新聞の前身である。

目次へ