本宿の合戦・本宿城の攻防
天正16年秋、岡崎城の松平広忠は、怒りに震えながら彼が最も信頼する武将らに、本宿城を攻め落とせと命じた。
大久保忠勝・酒井正親・石川数正ら、名をはせた大将らと、選りすぐった将兵らと、
人馬おおよそ四百余騎、真夜中に3手に分かれて、本宿城を目指して、攻撃を掛けたのである。ときに天文16年11月8日の夜半のことであった。
当時、本宿一帯の山々は木々茂り、秋なかばとて緑も色あせて紅葉にに染まり初め、
夜明け前にはすでに本宿城は、岡崎城松平広忠の精鋭の将兵に取り囲まれていた。
本宿城の合戦の火ぶたが切られたのは、9日の明け方7時頃とされている。
鉢地川に面した表門に酒井正親が率いる軍勢がいまの中町あたりに陣取って、鉢地川を渡って本宿城の正面をめがけて攻撃する戦法であったが、橋はすでに城兵によって落とされており、しかも川幅もあり、3bもあって川を渡ることが出来ず、本宿城に対して弓矢で攻撃したが、城壁は高く高架なくかえって本宿城からの集中攻撃を受け、散々の目に遭い攻撃を一時中止した。「いまの東浦」城の東方からの大久保忠勝の軍勢は高い壁と曲がりくねった道で袋の鼠になるなど、こちらも苦戦散々であった。城の西側は石川数正の軍勢は、田圃や泥濘で泥だらけになり思うような戦いが出来ず一進一退の戦いであった。
岡崎城の松平広忠軍は本宿城の松平権兵衛重弘の思わぬ戦
ぶりに苦戦をし、大久保忠勝・石川数正・酒井正親ら武将は戦陣を立て直して、今度は
裏門から攻めることにしたが、地形で解るように裏手は山で重弘の兵は地形の丘陵地帯
をよく知っており、待ち伏せなどで本宿城軍は優勢のうちに戦いを進めていた。

岡崎軍は四方にわたって手痛い戦いであった。
「いま、此のあたりは宅地化されているけれど、丘陵地帯で木々が茂り伏兵していて
岡崎軍と戦うには絶好の処であった。」
このようして、本宿城を攻めた岡崎松平広忠
軍勢は一時は敗退したが、戦いは明け方から夕刻まで続いたという。
本宿城内の松平重弘軍勢はいままでの戦いで、岡崎軍を撃退したことに自信を得て、
今度は本宿城外に出て、岡崎軍を一挙に撃滅しょうと城外に出たときに、岡崎軍の全員
の待ち伏せを受け、激しい戦闘になったといわれている。
このように本宿城外の戦いで、本宿城主松平権兵衛重弘の将兵は、不意打ちを受けて手痛い損害を出し、多くの将兵を失い、城主重弘の弟親成、忠就、はじめ武将兵士を城
外の2度目の戦いで失ったと伝えられている。戦いに敗れ城に帰った兵士は、10余名
に過ぎなかったといわれている。この戦いは「本宿城の合戦」という。
このようにして、本宿城外の戦いで敗れた城主松平権兵衛重弘は、10名余の兵と共に
深夜を待ってもう勝ち目のないことを悟り、城内で篝火「かがり火」を大きく燃やして
気勢を挙げたに見せかけて、子ら忠就、清蔵、三蔵らと、兵を連れ、燃えさかるかがり火の本宿城をあとに闇夜をついて逃げ延びたのである。
一方、勝つた岡崎松平忠広軍は
まさか、本宿城主松平重弘が逃げ延びたとは露知らず、さらに勢力を強くし、翌朝「卯」
の刻に鬨の声と共に、全軍で本宿城に猛攻をかけたが、城内には一人も居らず、岡崎軍本宿城を攻め落とした。本宿城主松平権兵衛重弘は城を後にするとき、妻子の無事をここ道元寺に祈り託したという。ときに天文11年11月9日早朝の出来事である。
西暦1548年445年前のことである。道元寺という寺がこの地にあったという。