この時の幼名竹千代「人質」については、歴史文献の或る書は、短絡的に引き続いて「今川義元に人質にされた」と記されており、詳細な竹千代と信広との人質交換や竹千代が人質を解放された日場所及び・再び義元の人質に詳しく書かれていないが「竹千代の人質の様子」などが詳細に書かれている愛知県文化財保存振興会の資料内容から「家康幼少竹千代8才の時の三河法蔵寺で手習いの伝承」をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

愛知県文化財保存振興会編・家康略年譜「日本近代文学会員・寺島初己先生」によれば1549年・「天文18」11月9日今川義元が安祥「安城」城の織田信広を攻略し、信広と竹千代との人質交換が行われて、竹千代は織田勢から晴れて人質生活から解かれ2年半ぶりに松平氏の岡崎城に帰ったが、時すでに岡崎城や三河一円地域は今川義元の支配下にあり、この時8才の竹千代はさぞかし無念であったであろう。今川義元はこの時、再び竹千代を駿河の義元の許で人質「27日」としたのである。 この辺りの分析が8才の竹千代が法蔵寺にて手習いの伝承の重要視点である。「家康全国東照宮連合会編」文学博士中村孝也先生によれば、1549年「天文18」3月6日父広忠没し「24才」・竹千代11月尾張より岡崎に帰る・27日駿府の今川義元の許にいった。と記述されている。両書とも同じ内容だが、愛知県文化保存振興会編がより詳細であり、日場所まで及んでいる。従って愛知県文化財保存振興会編の家康伝によることとする。西暦「1549年」、和暦天文18年11月9日に竹千代と織田信広と人質交換が尾張の国 笠寺で行われた。笠寺から岡崎まで凡そ45q、竹千代は岡崎城に帰り、亡き父の墓参「岡崎城近く」と、老臣鳥居忠吉らに留守中の話を聞くなどしたが、この時すでに岡崎城と三河一帯は、駿河の今川義元の勢力になっており、名ばかりの岡崎城であった。父の墓参も今川勢に隠れてするぐらいで岡崎城での竹千代の居心地は悪い雰囲気であったことは想像出来るのである。

この時、再び、竹千代は駿河今川義元の許に成人まで人質が決まっていたのである。
このぺージの始めに、父広忠の松平家系の親族一人が長沢松平氏を名乗り、宝飯郡長沢に住んで居り、法蔵寺7代世主「初代竜芸上人」教翁洞恵上人が「竹千代の伯父に当たり」その許に身を寄せ、8才の竹千代の養育に尽くし、「武・文」手習いにより「草紙掛け松」の伝承があるものと考えられます。竹千代は今度は陸路で駿河の今川義元の許で人質になる為に出発しなければならないが、法蔵寺は駿河に向かう道沿い「東海道沿い」で道中であることを考慮するときに、押しつけでなく、自然に考えられるところである。「本宿・法蔵寺での文・武の手習い伝承」を裏付けされる見方・考えが方ができると思います。
従って、徳川家康が幼少のころ、三河国本宿・法蔵寺で伯父の許で 文武を習い、竹千代の大器の素質が養われたと、歴史文献にもとずく裏付けとなるのではないか。全国東照宮連合会編の家康公伝「家康の人間形成に片時も無駄はない」とあり、実例の1つであろう。竹千代の人質には同じ年頃の子供も含まれており、ともに文・武に励んだと書かれている。
また、徳川家康は東海一の弓の名手であり、竹千代時代から弓矢・木刀の武芸は上手であり、現存の竹千代手習いの草紙掛けの松は、駿河で成人後 に家康の希望で、東海道を行き来するときに、よく見えるように、東海道沿いに植え替 たものであり、松は枯れて3代目の松であるようです。 1996年に岡崎市主催の文化財特別展「岡崎の古刹・法蔵寺」とその歴史と美術展が三河武士のやかた・家康館で盛大に開催されて、多くの人々に深い感銘を与えたました。ここに記載の記事のうち一部はその時の資料からも引用をさせていただきました。 2000年「平成12年」1月8日記。 文責・鈴木幸朗

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