三河本宿・法蔵寺六角堂の由来


郷土誌・「ふる里本宿千三百年史」から抜粋した。
出生寺の六角堂の由来「始まり」・出生寺は法蔵寺の前の名前である。
「いわれ」、 第四十二代 文武天皇のとき、京に行基という 高僧がいた。
地方の国々に仏教の人々に教え広めようと、東国を行脚の道半ば、この地に立ち寄られたとき、この地の二村山の麓に一本の大杉を見付けられ、不思議なりと思い、その大杉の根本に近寄れば、一条の光が差しい出ており、 さらに光をたどり大杉の梢を見上げれば、一人の童子が現れいでて、 告げるに、・・・
なんじ、知らずや。・・この二村山は釈迦如来・釈迦往来・八千度のとき、説法済みし 給う霊場にして、尊くあるべし。と。 むかし、日本武尊が東征の折りに、諸国の神々に戦功を祈願し懇願し給う霊地にして、この大杉は一夜にして現れ出たる霊木で 尊くあるべし。日夜五色の光を放つなり。
「いま、この霊木で 観音像を刻めば 来世に利益あるべし」と、・・・童子が告げた。 行基喜びて、すぐに3尺3寸の観音像を刻みて、つぎの歌を詠み、


生まれいずる 谷も 光も 一夜杉
峰にも およぶ 影を みるかな

と詠み、 行基は大杉の梢の童子に向かい「御身は如何なるお方なりや。」と尋ねるに、、
童子曰く、「救世大士にて西方浄土に居ります」といいて、黄金の観音像に変わりて 紫雲にのりて、西方に飛び去りぬ、 行基は「この観音像は行基自作といえど、黄金 童子がお作りの観音像で、尊くあるべし。」と、・・・
その後に、淳仁天皇のお后が御産でお悩みのとき、行基がこの観音像を本尊と として、安産の祈祷をしたところ、安産にして男の御子「第一子」が生まれけり。
よりて、淳仁天皇は 使いを、この御山「二村山」に派遣され、この山に一夜の 大杉のありし処に霊木と安産で皇子の誕生の吉祥をもって、行基和尚にこの地にお堂 を建てさせた と伝えあるべし。
注1, このお堂が6角堂で皇子誕生の吉祥でもってお堂の名を出生寺と名付けた。 2,このお堂が出生寺でいまの法蔵寺の前の名で、法蔵寺の誕生の始まりである。
3,このお堂は初めは二村山の山頂近くにあったが、永年の風雨により壊れて、 いまある法蔵寺境内に移された。
4,二村山は岡崎市本宿町の緑町住宅の南に見える山である。

ふる里本宿1300年史 「20世紀最後の2000年に発刊」
東海道と五十三次宿場の魅力「21世紀特集」・東海道宿制四百年記念2001年刊行」
編集・発行ともに、鈴木幸朗・古希刊行した。
三河の国本宿・「江戸時代は法蔵村」の紹介
江戸日本橋から旧東海道を西にたどり、36番目の赤坂宿と37の藤川宿場とのほぼ
中程に現在は岡崎市本宿町がある。江戸時代は法蔵寺村といい、東海道法蔵寺門前町と
して、法蔵寺だんごや草履が茶店として旅人に親しまれた。古刹で法蔵寺は大宝2年「7 02年」高僧行基が開祖し、後法蔵寺と改宗され幕府から愛顧された。徳川家康が幼少竹千代8歳の時、手習い寺として教翁和尚から草紙掛けの松や東照宮など史跡に富む。

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