序文

本誌 ・東海道と五十三次の魅力再発見の編集の骨子

ここ半世紀「50年余り」を除いて、我が国の歴史上に庶民が語られることは皆無に等しい。「豚に衣装が無いに似て」多くが、その栄光者のみにスポットが当てられ農民百姓庶民は歴史の片隅に捨てられ 庶民に 衣装や栄光は無いにしても、彼らは権力の下で 支え 働き、苦渋をなめ続けた、有史以来の歴史観から下積みの彼らの存在を忘れてはならない。歴史の栄枯盛衰なかでこの事を目線に置いて、この意味で本書を編集してみたい。

・・・東海道と五十三次宿場は総て 日本文化の集大成である。
朝日新聞より

序文の内容

そもそも東海道は京都三条大橋より江戸日本橋に至る道程にして、古今旅人の 往来の主道なり。とくに往還道として徳川幕府は知力を注ぎ、参勤交代を制度となして、百二十四里十五丁「492キロ100b」宿駅五十三次、松や一里塚を 置き江戸時代俗称大名行列で街道栄え、旅人も便利多くして世に東海道を街道と して残す。 │
然れども 東海道は昔文武天皇が制定した 日本七道の1つとし京より伊賀の 国より外洋に沿い、常陸の国に至る15国に及びしが、源の頼朝公により京鎌倉の交通鈍なるを改め、以後徳川家康全国統一に及んで更に往来を便にした。
之により、江戸と京の諸道発達し東海道五十三次の東西の交通繁栄して昔の比にあらず。他の六道に比して此処東海道は街道海にいで、舟にて街道となして 川に渡し船 険なるなる山越え数々、是東海道の特徴と言えるべきものなり。
加うるに此の道中は歴史に多くの文学・物語を残し旧跡や遺物多く多彩興味山積。

太平記に

憂きを止めぬ逢坂の 関の清水に我が袖濡れて、山路をいでて内浜に辿り、長橋を渡りて行き交う人と袖合わす人情に触れ,野に啼く鶴も 山路に啼く鶯 も子を思うかと、気に留めば我が心哀れなり。
時雨も痛く肌を打ち、木の葉からしたたる滴に袖濡れて、吹き寄せる風に露散りて篠原に篠分けて道行けば、自然の風景ありても涙に曇りて見えず解らず、夜の森のした草に駒とめ宿して我が里家偲ぶなり。
三河の架け橋八つ橋の・浜名の浜に鳴く千鳥、支えなくば下る渡し船。宿より眺
める満月は心を満たし 弓月は心が寒し、佐夜の山越え涙と共に月夜はなお悲し。

明け方の空見れば、富士の高嶺に雪積るを見れば、何もかもすべて、気晴れてよし。人情哀愁・物見遊山いずれも旅なり、心に残すなり。東海道に架かる唄頗る多く「坂かは照る照る鈴鹿は曇る」、「伊勢は津でもつ津は伊勢で持つ尾張名古屋は城で持つ」。五万石でも岡崎様は、、、箱根は八里は馬でも越すが、など紀行文・歌多く希に見る紀行本なり。


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