大名行列「参勤交代」について
江戸時代の参勤交代の制度は徳川幕府が各地方の大名や藩主たちを江戸幕府に呼び寄せ大名たちも好んで江戸幕府に参上し、お伺いを立てることであり当時の封建社会による、主従の関係を表す儀式しきたりと見て良かろう。西暦1635年「寛永12年」から行われて、余り大名行列が長くならないように制度で決まっていたが、実際は幕府には少なく従者の数を届けて、行列は届けより多い従者の列であった。このことは、その大名の権威や威信、組織を天下に示し誇示する絶好の機会であったからどの大名も競い合うように派手に行った。どの大名行列も本宿村は通過地であったが、法蔵寺前は馬上での通過や籠に乗ったままの通過は堅く禁止され三宝金を奉じ、礼拝して通らなければならなかった。
どのくらい大名行列が東海道を通ったか
本宿村の東の赤坂宿、西の藤川宿の資料として、宿帳から大名行列の回数を割り出してみると、亨保元年「1716年」の1年間に往還上り下りの合計は149回に及ぶ。
149回の通りは、赤坂や岡崎宿に宿泊した大小の諸大名と各地の藩主であるから、赤坂岡崎宿「藤川宿」を通過したものを含めると、これより多く大藩小藩の大名や藩主たちの行列が通過したことになる。小さい藩は100人前後・20万石以上の大名になると、馬が20騎ぐらい、付き添いの武士、腰元、足軽など含めると250から300人以上になり、尾張藩・紀州藩などは総勢300人余に及ぶ大行進で延々数キロに及ぶ行列である。
迎える村人たちは
| このような大名行列に対して、村人や旅人は東海道の道端に正座し、大名行列が通まで頭を下げ、正座のままで見送らなければならなかった。もし、失礼なことがあれば打ち首か牢屋に入れられるか罪を受けることになる大変な時代であった。 |
東海道道中膝栗毛
十辺舎一九の旅道中記にみる旅の変化旅情
天保六年「1809年」に、、、「それより大平村を過ぎ往くほどに、岡崎の宿に至る。ここ岡崎は東海に名だたる景勝地にして殊の外賑やか、両側の茶店いずれも綺麗で賑やかに見えたり。」このような文筆で書かれた東海道膝栗毛道中記は街道旅の人気を盛り立てたのである。岡崎宿は家康の生誕地として知られ、名の通った宿場で茶店に粗茶・だんごそばなど軒下に縁台を置き「お休み処」と書かれた立旗に見られる「芝居舞台」のようにもてなしの光景は江戸時代の旅風景である。十辺舎一九は本名は重田貞一といい、明和2年1756年駿府の同心の家に生まれに放浪の末、30歳で江戸に往き戯作者になった。そのためか、この道中記の主人公弥次郎兵衛も駿河の人である。江戸神田町の小借家に住み硯蓋や重箱の絵描き職人となり、それだけに「江戸ッ子気質」がわかる人であった。
大当たりしたのは亨和2年1802年で初編、内容が田舎臭く写実的書法で弥次・北八の狂言スタイルで仕上げ、読者サービス精神に徹した。この本の道中記が旅ブーム扇動し、民衆の楽しみの旅として道中の「飯盛り宿」の酒肉の遊びにあって、日常の家での一汁一菜から抜けだして、毎日白い御飯を食べ御馳走で腹ごしらえ、道中名物の舌づつみは人生の最高の幸福の側面は、なにか今と変わりがないように思える。