安藤広重 東海道五十三次 藤沢宿〜お江戸日本橋
| 藤沢宿 | 1,東海道53次宿駅の絵・歌川広重の藤沢宿の絵をよく見ると対岸の江ノ島 を海向こうに描いている。江戸時代は信仰と観光の旅で賑やかであった。 2,義経首洗いの井戸がある。奥州平泉で戦死した首をここで洗い白旗神社に 義経を弔った。馬入川に架かる橋の渡り始め落成式に頼朝が乗った馬が 義経の亡霊に驚いて、頼朝が落馬し翌年頼朝はそのために死んでいる。 |
| 戸塚宿 | 1,広重絵の中心、米屋の看板は当家の家宝として、代々に引き継がれ保存さ れている。とのことである。念のため 「こめや」と看板に縦書きである。 2,戸塚の名の語源は昔旅人が10人賊に殺され10の塚に弔った語源による。 3,仮名手忠臣蔵の「お軽・勘平」の舞台はここ戸塚で知られている。 |
| 保土ヶ谷宿 | 1,画家広重の東海道53次の絵は「保土ヶ谷新町橋」を描いたが、訪れ たところ雲を掴むようなものであったが、帷子川の形跡が残ている。 3,3は江戸時代の食べ物名物名産の項であるが、保土ヶ谷は交通盛んで 賑わい、境木地蔵堂から茶店が並び「ぼた餅」が売られていたが特別その 「ぼた餅」の名前はなく、残念ながら知ることができなかった。 |
| 神奈川宿 | 1,広重も日本の開国を予測したのか、港町で舟の出入りの神奈川宿の絵で、 2,やはり、幕末の安政5年「1858」に、欧米5カ国条約が締結されおり、 ここ神奈川宿から「横浜港」に、そして神奈川宿が横浜村になり発展した。 3,神奈川の名物「亀の甲せんべい」は江戸時代から売られ浦志満「うらしま」 と言う店屋が繁盛した。宿で酒を売り海産物が酒の肴が大受けしたという。 |
| 川崎宿 | 1,広重は有名な渡し「六郷の渡し」を克明に実写し、貴重な江戸時代の人の 生活や風景など実際に絵を通して、当時の様子を今に伝えている。 2,川崎の繁栄は川崎大師と「六郷渡し」を考え出した、本陣主人・田中丘隅 の知恵が「六郷の渡し」が繁盛した。渡しの全部の収益は宿場分配にされた。 渡しの前は橋が架かっていたが、橋の流失を機会に「舟渡し」に変えたのが成功した。 3,川崎宿の名物は「川崎茶飯」と「川崎宿米饅頭」が旅人に人気であった。 |
| 品川宿 | 1、広重は神奈川宿と同じような絵だが、宿場の繁栄は品川の方が優っていた。 2,この宿場は東海道始端の宿で旅人は骨休め大名行列は整える宿場であった。 従って繁盛、水茶屋、煮売り渡世、駄菓子、そばや、酒や、タバコや、小間物問屋、が店を並べていた。品川宿の飯盛り女「宿場遊女」500人と定められていたが、1500人いた。品川女郎は「お花」「お咲」で、言葉も「ありんす」を使い、「吉原の花魁」に負けず繁盛した。 3,品川宿も江戸湾海産物「海苔」「魚」豊富、「幕府御前海苔」で幕府に献上された。仙台味噌は「伊達政宗が仙台から持ち込み」江戸っ子に人気があった。 |
| お江戸日本橋 | 1,東海道京都までの「一里塚」は総て「お江戸日本橋」道路標起点で 一里塚や各宿場の道程が決められ、「日本国道路元標」のプレートが 道路にはめこまれている。現在の日本橋は明治建築家妻木頼黄が明治 44年「1911」石造で蓮アーチ式長さ46.8b巾27bで後に 青銅電灯照明灯が修復され、国の重要文化財に指定。日本初の洋式橋。 2,大名行列は「お江戸日本橋七つ立ち行列揃え、あれわいさ」高輪夜明けで提灯消す。古書に高欄葱宝の橋上橋下人馬とも絶えず、魚舟市声高く、江戸萬戸を開く事このこと也。 |