第2編 東海道の知恵袋

「23」東海道は富士山と、どのように つき合ってきたか。
東海道の名物と言えば今も昔も変わらないものに富士山が挙げられる。
吾妻下り時に最初に富士山が見えるところは新居関「今切り」当たりという。富士山が古歌に出てくるのも此のあたりで、波間の富士山や松原の富士を歌っている。
さて、東海道は富士山とどのようにつき合ってきたか、を検証してみたい。 無論、東海道が獣道かそれ以前である。富士山の最初の噴火は約70万年と前と学問的に言われている。日本列島の大地溝を富士溝というが、富士山を見た場合に東西の裾野盛り上がった部分で小噴火が後に、大噴火が山頂であった。小噴火は5合目「2300b、」で、最後には宝永4年「1707」で宝永火山といい、2702bで富士山は有史以来計14回位と推定される。特に奈良時代から平安時代に噴火が続き、周辺は不安定な道であった。
天応元年「781年」7月6日「日本逸記」に「駿河の国言 富士山下雨灰灰之所云。で延歴19年「800年」「駿河の国言 自去3月14日迄4月18日冨士山嶺自焼昼即火気暗煙、夜則火光照天其声如雷、灰下如雨。山川川水皆紅色也」とある。火山のすざましさが解る。貞観6年5月と7月に激しく溶岩が本栖湖の一部を埋め精進湖を造った。
承平7年と「937年」と承保3年「1076年」3月27日「富士山大燃焼」とある。江戸時代「1600年」になると、大規模な噴火はなく小規模の地震に変わっている。宝永の爆発は玄武岩爆発で火口より25キロの範囲に1bの噴火物を出し、宝永4年「1704年」11月23日東海道旅人新井白石は記事に「特記、此日の午後 雷声雪降如、白灰降れり、西黒雲起こり雷光凄し、白色草木灰降り之白、地鳴り、地震也。「この日富士山火出て焼かれ消え伏す感するなり」。この噴火を最後に富士山は静寂を守り続け、小規模の地震のみで火炎なく鳴りを潜めている。火山国日本はいつでも警戒が必要である。

「24」東海道の参勤交代・「俗称・大名行列」の実態
東海道の風物詩として大名行列があった。所謂参勤交代の制度で徳川幕府が全国の大名や藩主たちを江戸に呼び付けて、主従関係を明確にする儀式と考えてよかろう。
また、大名たちも自分の勢力や権力を世間に表す絶好の機会として捉えていた大名た ちも大勢居たようである。
文献など総合すると、スローモーションの典型のように想像されるがその実は参勤 交代は大名・藩主の財政を圧迫するところから、本陣の宿泊回数を減らし、なるべく早く通り抜けようと勤めている。特に江戸時代後半は顕著にそのことが現れて、最初は1日5里がぐらいが文久の頃「1670年」から1日8里・10里となり、しかも、 朝早く宿を出て宿泊を遅く行動も変わっている。とも揃いも減少し経済的現象の現れ と言える。大きな大名の殿様は食事の料理人や台所で働く者まで居たほか、長持ち諸道具、鍋釜・七輪・火吹き・米味噌、風呂桶まで持ち歩き、大名は通常本陣の風呂に 入らず家来の他に女中衆も含まれ紀州藩や尾張藩は女たちは50人にも及び行列に付 いて行けず江戸に到着が3日ほど遅れている。宿料は団体扱いで本陣に「包み金」を出す。食事は粗末なもので、本陣より脇本陣の方が収益があり安定していた。
宿場では宿役人が村はずれまで迎えにきて本陣では大名の家紋幕を張っていた。

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