| 東海道宿制400年記念史の「東海道と五十三宿場の魅力」から抜粋した。 同本の最終編6編のごく一部をご紹介。 |
東海道の振り出しは「やはりお江戸・日本橋」
今の地名は東京都中央区日本橋。川に架かる橋で橋に由来している。慶長8年江戸幕府初代将軍徳川家康が1603年日本を代表する期待を込めて架設。現在の橋は明治44年「1911」の石橋で、この付近は江戸界隈の中心で「政治・経済」栄えた。
このため高島屋、三越、日本銀行始め、証券会社・東京駅など集中し、銀座線東西線都営地下鉄線が網の目のように走っている。橋の中央に日本道路里程の原標が立ち、5街道や東西幹線の起点となっている。東西詰めの一角に当時江戸時代の日本橋を偲ぶ記念碑、高礼場を残し往時の風景と日本橋の由来が刻まれている。いよいよこの日本橋から京都三条大橋まで一二四里五十三次宿駅の歴史が実在する旅に出よう。
徳川家康は江戸の町に堀で川を造り、橋を架け期待を込めて日本橋と命名した。
この橋の上を現在は首都高速道路が覆い被さり、当時の見栄はない。
激しい騒音に 反して日本橋下の水面は極めて穏やかに、流れていたのが対照的で印象に残っている。
江戸から14番目・吉原宿
ここは富士市で有名な「左冨士」となる。お江戸から東海道を京都に向かう時絶えず富士山は右手に見える。即ち右富士で友として語りかけているが、ここでは左となる。
広重も左肩に富士を配しており、全く家がなく東海道の松並木が遠くまで続き、静か吉原宿である。所々に松が哀れさを表しているようである。ここは和田川に伝わる「水
鳥の羽音」の話がある。平治4年「1180年」平維盛が川辺で陣地を構え決戦の前夜、飛び立つ多くの水鳥の羽音に驚き、慌てふためき戦わずして退却したという。
江戸から25番目・日坂宿
江戸時代東海道のなか難所と言うより、多くの旅人が怖がり嫌がった峠道であつた。
この辺りは山の中で菊坂、東坂、西坂と続く山間の不気味な東海道の昔道である。
その昔、夫を尋ねながらの臨月の女が賊の恋に従わず殺された。その胎児はここの地蔵様に助けられたが、女は泣きながら息絶えた。その時の泣き声が路傍の石にしみ込んで、夜毎に泣き声が聞こえる「夜泣き岩」がある。大きな丸い岩で宇堂の中にあり、線香の煙と花が絶えることがない。有名な「佐夜の泣き石」で峠の茶店で「子育て飴」を売っており茶店のお婆さんは竹箸に巻き付けた飴を食べると上品な味がした。
観音地蔵さんは子に与え育てたという。悲しい物語である。ススキが靡く峠です。
江戸から36番目・赤坂宿
御油から赤坂まで本当に近い。「夏の月御油よりい出て赤坂に」芭蕉翁の句碑がある。
江戸時代の東海道道中案内書に「かっては遊女多し」とある。大橋屋が現存する。
広重の絵の蘇鉄は浄泉寺の庭に植えられ宮路山の紅葉は素晴らしい。以下略す。
東海道と五十三次宿場の魅力は五十三宿毎に詳細に説明があるが、以下略、本誌参照。